探偵は今夜も憂鬱 樋口有介 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)俺《おれ》の人生なんか |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)顔を力一杯|歪《ゆが》めて ------------------------------------------------------- [#ここから4字下げ] 雨の憂鬱 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] [#ここから5字下げ] 1 [#ここで字下げ終わり]  あと一週間で十月が終わる。だからどうしたということもないが、一週間の時間が過ぎればそれだけ人生も終わりに近づいていく。俺《おれ》の人生なんかいつ終わっても困らないとは思いながら、生きている間は飯を食って、マンションの部屋代を払い、酒を飲んで馬券を買って、たまには女にだって惚《ほ》れなくてはならない。それにはどうでもいい殺人事件のレポートを書いて原稿料を稼《かせ》がなくてはならないし、当面の問題としては、あと一週間で雑誌社の石田《いしだ》まで届けなくてはならない。警察をやめてから定収入とは縁がなくなっているから、俺にしてもここ当分、石田から回ってくる仕事で食いつなぐしか当てはないのだ。  俺は原稿用紙の上に鉛筆を放り出し、煙草《たばこ》に火をつけて、椅子《いす》の背凭《せもた》れを支えに一つ大きく背伸びをした。窓の外には霧雨のような雨が降っていて、四ツ谷駅のほうからクルマが渋滞する粘った音が聞こえてくる。マンションの近くをサイレンを鳴らした救急車がとおり、夕方のしけっぽい空気が開いている窓から部屋の中に吹き込んでくる。  電話が鳴って、煙草を潰《つぶ》しながら受話器を取りあげた俺の耳に、吉島《よしじま》冴子《さえこ》の低い声が気楽な調子で飛び込んできた。 「こんな時間に部屋にいるということは、例の仕事、まだ片づかないわけね」 「締切までには一週間あるさ。その気になれば母親殺しぐらい、一晩で片づけられる」 「その気になれば、でしょう?」 「その気になれば、さ」 「草平《そうへい》さんがその気になれば、大宅《おおや》壮一《そういち》賞だって取れるわよね」 「君、昼飯に悪いものでも食ったのか」 「昼飯《おひる》は食堂のさくらランチよ。ちょっと面倒《めんどう》なことがあって、草平さんに電話をしたの」  吉島冴子が『面倒なこと』と言うからには、どうせ殺人《ころし》がらみの話だろうが、原稿の締切が一週間後に控えている現状では手放しで有難《ありがた》がる気にもなれない。 「ある意味では個人的なことなんだけど……」と、電話の中で、いくらか声を落として、吉島冴子が言った。「高校時代の先輩に妹さんのことで相談を受けたの。立場上わたしが動くわけにはいかないから、草平さんを紹介しておいたわ」  冴子は俺が警視庁の特捜《とくそう》にいたとき上司だった女で、今は本庁にある『都民相談室』室長をやっている。三十歳で警部になっているが、キャリア入庁だから、階級に文句を言っても仕方はない。 「君が俺のことを気にかけてくれるのは嬉《うれ》しいけど、今の仕事を今月中に片づけなくてはならないんだ」 「その気になれば一晩で片づくんじゃなかった?」 「それは、まあ、そうだ」 「難しい事件ではないのよ。殺人も絡《から》んでいないの。彼女の義理の妹が悪い男に付きまとわれて、なんとかしてほしいというだけのこと」 「高校の先輩って、女なのか」 「わたしの高校は私立の女子校よ。覚えていないの?」 「覚えては、いたが」 「彼女の名前は園岡《そのおか》えりといって、演劇部の一年先輩なの。園岡というのは結婚してからの名前だけどね」 「今更きれいごとを言うつもりはないけど、俺の専門は、殺人なんだぜ」 「分かっているわよ。わたしだって草平さんにこんな仕事は回したくないけど、でもあなた、今はアルバイトが必要でしょう?」 「俺の人生は、ぜんぶが、アルバイトみたいなもんさ」 「わたしが言ってるのは、効率のいいアルバイトのこと」 「効率の、いい?」 「わたしとのデート資金だって稼がなくちゃね」 「一生けんめい、くだらない親族殺人の記事は、書いている」 「筆休めに彼女の話を聞いてくれればいいの。草平さんにとっては楽な仕事だと思うけどな」 「要するに、その女の義理の妹と、悪い男ってやつを別れさせろということか」 「成り行き次第でしょうけど、相手の男は前にも事件を起こしているらしいの。素人《しろうと》が手に負えないことは確かよ。本当ならヤクザ屋さんの仕事でしょうけど、わたしが彼女に、その筋[#「その筋」に傍点]の人間を紹介するわけにはいかないものね」 「俺もヤクザも、人種的には似たようなもんだしな」 「顔のことなんか言ってないわよ。わたしは高校の先輩から相談されたことではあるし、草平さんにも効率のいいアルバイトをさせてあげたいだけ。彼女、原宿でエステティック・クラブをやっているの。はやっているらしいから、お金はあるはずよ」  金、と聞いて受話器を握った手に力が入るのも情けないが、今の原稿を書きあげたあと、来月の仕事が空白になっている事実は、自慢できるほどの人生ではない。 「プロを紹介するから、最低でも百万はかかると言っておいたわ」 「百万……な」 「最低で、よ」 「それは、まあ、正解だった」 「やる気になった?」 「ちょうど原稿が進まなくて、一息入れたいとは、思っていた」 「いいタイミングだったでしょう?」 「君のタイミングはいつだって完璧さ」 「この前会ったとき、草平さんのお財布《さいふ》、淋《さび》しそうだったものね」 「俺は、美意識として、財布の形は崩さないことにしている」 「それにね」 「なんだ?」 「園岡さん、演劇部ではスターだったの。草平さんの労働意欲は掻《か》き立てるはずよ。あなたって、いい女が絡んだ事件だと必要以上に張り切るタイプですものね」 [#ここから5字下げ] * [#ここで字下げ終わり]  園岡えりが演劇部のスターだったと聞いて、特別に張り切ったわけでもないが、電話を切ってから十分後に、俺はもうレインコートを引っかけて外に飛び出していた。机にしがみついていたところで原稿が捗《はかど》るわけでもなし、気分転換に、園岡えりという女がやっているエステティック・クラブを見学してみようと思ったのだ。受けられる仕事なら受けてもいいし、その筋[#「その筋」に傍点]の人間が必要な状況なら、そっちに話を回してやればいい。  霧雨の中を俺はJRの四ツ谷駅まで歩き、中央線と山手線を乗り継いで、原宿に出た。 『コスモス・ハウス』というエステティック・クラブは、原宿駅から五分ほど新宿方向に歩いた、明治通りとの交差点の手前側にあった。エステティック・クラブだというから、どうせ美顔マッサージや減量コースがあるだけの美容サロンだと思っていたが、バス通りに面した白い五階だてのビルは全階がコスモス・ハウスになっていて、入り口の営業案内を見ると、脱毛や痩身《そうしん》の一般的なエステティックの他に、エアロビクススタジオからスポーツジムまで備えた総合アスレチッククラブのようだった。園岡えりが「最低で百万」という条件をかんたんに受け入れたところをみると、この商売が「はやっているらしい」 ことも間ちがいではなさそうだった。  レンガの階段を三つあがり、自動ドアから中に入ると、フロアの一番奥にはカウンターを扇形に渡した受付けがあり、それ以外のスペースは低いソファをゆったりと配置した、ホテルふうのロビーになっていた。先入観との差k怖《わ》じ気《け》づいたわけでもないが、俺は受付けには進まず、入り口の横の壁からブック形のパンフレットを抜き出して、ロビーの空いているソファに腰をおろした。コスモス・ハウスが予想以上に大きいクラブだ士なれば、園岡えりに会う前に、事業の概略ぐらいは頑に入れておきたい。  パンフレットを開いてみると、減量、美容、健康と、それぞれにいくつもコースがあり、オリジナルローションを使った痩身美容などは一回のマッサージで三キロも体重が減ると書いてある。一カ月のスペシャルコースを受けると、十キロも減量できるようで、最近重くなり始めた下腹を、俺は糟ず手で撃ていた。クラブの吉はたんに痩せたり顔の雛を取っをりすることではなく、躰と心の総合的な健康が目的なのだという。  パンフレットの内容に…かなり心を動かされて、俺もスポーツジムぐらいは通ってみようかと思い始めたとき、ソファのななめ向かいに座っていた女の子と目が合い、三十八年間の習慣で、つい俺は笑いかけてしまった。女の子はコールテンの青いジャケットに、辛子《からし》色のミニスカートを穿《は》いていた。  なにか勘ちがいでもしたのか、女の子が笑い返し、タータンチェックの大きなバッグに腕を回しながら、膝《ひざ》を揃《そろ》えて少し俺のほうに躰の向きを変えてきた。 「見学は無料ですから、自分の目で確かめたほうがいいですよ」と、丸い大きな目を秘密っぽく見開いて、太めの脚を勢いよく組みながら、女の子が言った。「たまには中年の男の人も通って来ますけどね」 「君は、このクラブの、会員?」 「インストラクターです、エアロビクスの」 「ああ、なるほどな」 「入会するならスポーツジムだけがいいと思います」 「俺もパンフレットを見ながら、そう思っていたところだ」 「そうですよね。わたしのクラスにも小父《おじ》さんが三人いますけど、はっきり言って、やめてもらいたいですね」 「レオタードってやつが、どうも、似合わない気がするんだ」 「まともな小父さんならみんなそう思いますよ。わたし、お給料を貰ってるから文句は言えないけど、小父さんはふつうに小父さんらしいほうが恰好《かっこう》いいです」 「俺、そんなに、小父さんに見えるか」 「そういう意味じゃなくて、今言ったのは、ただの、一般論です」  女の子が口を結んで、目を天井《てんじょう》に一巡りさせ、顔を力一杯|歪《ゆが》めて生意気な笑い方をした。改めて観察するまでもなく、女の子はバランスのとれた素直な顔立ちで、短いボブカットの髪がその小さい顔に感動するほど似合っていた。こんな子がインストラクターなら、エアロビクスに通ってみたくもあったが、自分のレオタード姿を想像して、俺は心から萎縮した。  女の子がバッグを抱えて立ちあがり、一歩歩いてから、俺の前で止まって、ぺこりと頑を下げた。 「わたし、時間なんです。受付けで訊《き》けばもっと詳《くわ》しく教えてくれますよ。でもやっぱり、入会するのは自分で見てからのほうがいいと思います」  女の子がバッグを肩に担《かつ》いでフロアを歩いていき、エレベータは使わず、階段をのぼって上の階に消えていった。俺のほうはソファに座ったまま、煙草を一本吸ってから、パンフレットをコートのポケットにつっ込んで受付けのカウンターに歩いていった。エステティック・クラブだからっていい女が多いわけでもないだろうが、このビルに入って最初に会ったのが今の女の子だということは、しけっぽい天気のわりに、今日は運勢がいいのかも知れない。  受付けで案内された五階の社長室は、南側の窓に東郷《とうごう》神社の森が見える、ベージュ色を基調にした広い清潔な雰囲気の部屋だった。園岡えりがドアの前まで迎えてくれ、挨拶《あいさつ》をしてから、俺たちは部屋のまん中にあるソファに向かい合って腰をおろした。コスモス・ハウス自体がイメージとは違っていたというのに、園岡えりの容貌は、もっと予想外だった。ワインカラーのテーラードスーツを堅苦しくなく着こなし、首筋の皮膚も二十代にしか見えないほど繊細で、それでいて二重《ふたえ》のはっきりした目には相手の気を逸《そ》らさない大人の落ち着きがある。高校時代演劇部のスターだったと聞いてはいたが、まさかこれほどいい女だとは、思ってもいなかった。冴子がもっと親切に説明してくれていれば、俺だってもう少し服装を整えてきたのに。 「お忙しいところを、お手数をおかけします」と、名刺入れからうす茶の名刺を取り出し、俺の前のテーブルに置いて、園岡えりが言った。  俺も自分の名刺を渡し、ついでに脱いだコートから煙草を取り出して、それに黙って火をつけた。喫煙の許可を求める礼儀を忘れるほど、たぷん俺は、あがっていたのだ。  なにから話していいか分からなかったが、煙草だけ吸っているわけにもいかないので、半分|自棄《やけ》で、俺が言った。 「吉島さんとは、高校がご一緒だと聞きました……演劇部だったとか」 「彼女のほうが一年後輩ですわ。あのころから頭のいい子でしたけど、警官になるとは、思ってもいませんでした」 「警官といっても管理職です。わたしのように汚《よご》れた仕事をするわけではありません。いわゆる、警察官僚というやつです」 「柚木《ゆずき》さんは、警察にはお長かったんですの?」 「三年前まで本庁の一課におりました」 「わたくし、警察の機構は分かりませんの。一課というのは、どういうお仕事をされるのかしら」 「その、一般的な、あれ[#「あれ」に傍点]です……人殺し専門の」 「まあ」 「子供の教育にいい商売ではありません」 「それでおやめになったわけ?」 「一応、そういうことです」 「分かる気がいたしますわ。大変ですものねえ、ああいうお仕事」  俺が警察をやめた理由を、ここで言っても仕方はないし、目の前に座っている男が人間を二人も撃《う》ち殺した実績があると知ったら、この繊細な顎《あご》をした女はひっくり返って気絶してしまうかも知れない。 「吉島さんからは、あなたが義理の妹さんのことで、お困りになっていると聞きました」と、やっと本来の用件を思い出して、煙草を消しながら、俺が言った。 「そうなんですの。でもわたし、今でも迷っています。見ず知らずの方にお話していいものか、どうか……」 「口外しないという約束ぐらいでは、信用できませんか」 「気を悪くされたら、謝《あやま》ります。でも身内のことですし、吉島さんにも、なにかいいアドバイスでも貰えればと思って、それで相談にいっただけなんですの」  園岡えりがなにを躊曙《ちゅうちょ》しているのか、まだ不透明だったが、週刊誌ネタになるようなスキャンダルを恐れる気持ちは、常識としては理解できる。こういう商売は特に、客にあたえるイメージだって大事だろう。 「わたしとしては、今度の仕事、無かったことにしても構いません」と、園岡えりの香水の匂いに、いくらか馴《な》れてきて、ソファに座り直しながら、俺が言った。「ただ世間には、あなたのような人が係わってはいけない人種もいるし、素人には手に負えない事件もあります。わたしに任せるかどうかは別にして、話すだけ話してみたらいかがです。話を聞くだけで料金を払えとは言いません」 「いえ、料金のことではなくて、今度のことはただの男と女の問題で、わたくしが専門の方にお願いするようなことなのか、それが、分からないだけですの」 「話してくれればその疑問にも答えられると思います。まず、そこから片づけてしまいましょうか」  我ながら、今日に限ってへんにサービスが過剰だとは思ったが、俺だって商売を抜きでサービスしたくなることはある。園岡えりが望むなら、こっちから金を払って相談にのってやってもいい。 「自分からお願いしておいて、まだ迷っているのも大人げないですわね。吉島さんと違って、昔からわたし、はっきりしない性格なんですの」 「義理の妹さんということは、ご主人の妹かなにか、ということですか」 「死んだ主人にとっては、たった一人の妹ですわ」 「ご主人は、亡《な》くなられている?」 「吉島さんからお聞きになっていません?」 「いや、そこまでは……」 「そうでしたの。主人は二年前に心筋梗塞《しんきんこうそく》で死んでおりますの。まだ三十七でしたけど、今はやりの、過労死というやつでした」 「このお仕事も、もともとは、ご主人がされていた?」 「主人が五年前に設立した会社ですわ」 「なるほど、そういうことなら、納得できます」 「は?」 「初めから雰囲気が違うと思っていました」 「どういうことでしょうか」 「これだけのビルを構えて、これだけの仕事をしている女社長というのは、ふつうはもっと怖《こわ》いおばさんです」 「わたくしが、頼りなく見えるということ?」 「残念ながら、大いに、頼りなく見えます」  園岡えりが、小さく声を出して笑い、俺も肩の力を抜いて、口の中だけで苦笑した。死んだ園岡えりの旦那《だんな》には申し訳ないが、これで俺の過剰サービスも、宿命的に力が入ってくる。  そのとき、グリーンのスーツを着た若い女がドアを開け、レモンを添えた紅茶のカップを持って静かに部屋に入ってきた。  二つのカップをテーブルに置いて、頭を下げたその若い女に、園岡えりが言った。 「北村《きたむら》さん。菜保子《なほこ》ちゃんは、会社に戻っている?」 「三十分ほど前に」 「例の企画の進み具合いを聞きたいから、ここへ来るように伝えてくれない? 例の企画と言えば分かるはず」  若い女が返事をして、部屋を出ていき、それを見送ってから、俺に向き直って園岡えりが軽く口元を微笑《ほほえ》ませた。 「いかがかしら。有能な女事業家らしく、見えませんこと?」 「多少無理があるようですが、努力だけは評価します」  また園岡えりが微笑み、シャネルのブレスレットウォッチを左手の袖口に覗《のぞ》かせて、レモンの輪切りをスプーンで掬《すく》いあげた。 「今妹が参りますけど、柚木さんの素性は知られたくありませんの。死んだ主人のお友達、ということにしていただけます?」 「菜保子さんというのが、義理の妹さんですか」 「短大を出てからここの企画部で働いています。まだ二十三ですけど、仕事は真面目《まじめ》にやってくれます」  ドアが開いて、さっきの女とはちがう、髪をワンレングスにした若い女が入ってきて、俺と園岡えりに一度ずつ、うなずくような会釈《えしゃく》を送ってきた。いくらか目がきつい印象だったが、顔立ちは整っていて、グレーのワンピースにクリーム色のジャケットを羽織った躰の線にも、ふつうのOLにはない品のようなものが感じられた。 「菜保子ちゃん、こちら、お兄さまのお友達だった、柚木さん」と、ソファから立ちあがり、視線の動きで俺を紹介しながら、小さな肩をすくめて、園岡えりが言った。「ちょっと失礼しますわね。この仕事だけ片づけてしまいます」  園岡えりと菜保子が並んで壁際《かべぎわ》のデスクに歩いていき、俺のほうは煙草に火をつけて、デスクを挟んで小声で話をする二人の様子を、目の端でそれとなく観察しはじめた。もともとが義理の姉妹で、打ち解けた雰囲気は感じられなかったが、どちらも目を離すのに苦労するほどいい女だった。街ですれちがったら、俺なんか、無条件で振り返ってしまう。世間には羨《うらや》ましいような女、というのがたまにいるものだが、他の女たちから見ればこの二人は、腹が立つほど羨ましい存在だろう。  園岡えりがなにか言い、菜保子がうなずいて、書類挟みを脇に挟みながらまた俺のほうに歩いてきた。菜保子は俺の横を通ってそのまま部屋を出ていったが、園岡えりは元のソファに戻り、飲みかけの紅茶に手を伸ばして、カップに軽く口をつけた。 「来年からテレビでコマーシャルを流しますの。いい企画がなくて、困っていますわ」と、カップを下に置き、ショートカットにした前髪を指の先で払いながら、少し首をかしげて、園岡えりが言った。「広告会社で持ってくる企画は、脱毛や痩身ばかりを強調しますの。わたくしとしては、総合的な健康産業というイメージをつくりたいのにね」 「その方面で協力できないのが、残念です」 「仕方なく引き継いだ仕事ですけど、やるからには満足のいくところまで充実させてみたいの。わたしでは無理だと思われます?」 「あなたなら成功します。新しい事業家のタイプとしても、ぜひ頑張っていただきたい」  このまま世間話をつづけて、紅茶を飲みながら園岡えりの顔を眺めていたかったが、大人の分別としては、やはり当面の問題に話を戻さなくてはならない。いくら俺が女に惚れっぽくても、これでも一応は、プロなのだ。 「妹さんのことですが、あんなに若くて奇麗な子が面倒を抱えているとは、信じられませんね」 「菜保子ちゃん自身が問題を起こしているわけではありませんの。相手のほうが、一方的に、と言うことだと思います」 「吉島さんの電話では、悪い男に付きまとわれている、ということでした」 「それも、はっきりしたことは分かりません。一度菜保子ちゃんと話をしたとき、彼女、へんに意地になってしまって、男の人のことには触れるなと言うんです。もともと他人ですし、主人が死んでからは家も別になっていますの。彼女は今、青山のマンションで一人暮らしなんです」 「あなたが心配する理由は、男の素性《すじょう》が分かっているから、ということですか」  園岡えりが言葉を飲み込み、唇でも乾いたのか、舌の先で濡らして、視線をあげずに深くうなずいた。 「他人《ひと》のことを悪くいうのも嫌ですし、菜保子ちゃんの私生活にも干渉したくありません。でも、相手の男が人を殺したことがあるというのでは、わたしとしても、知らん顔をしているわけにはいきません。わたくしのこと、お節介だと思われます?」 「いや……」 「義理の妹のことでも、心配するのは当然ではないでしょうか」 「それは、当然、心配でしょうね」 「でも心配するだけで、わたくしにはなにもしてやれません。なにをしていいのかさえ、分かりません」 「その男が人を殺したことがあるというのは、具体的には、どういうことですか」 「高校生のとき、人を殴《なぐ》って、殺してしまったそうです」 「殴って……ほうう」 「菜保子ちゃんとは、高校が同級だったそうです」 「高校の、同級生、ね」 「刑務所に入っていて、一年ほど前に出所してきたようです。詳しいことは、わたしには分かりませんけど」  高校生のとき人を殺して、一年前に出所してきたということは、少年刑務所と一般刑務所を合わせても、四、五年で刑期を満了したことになる。仮釈放が一、二年付いたとしても、男の罪状は殺人ではなく傷害致死であるはずだ。もっとも一般の人間にとっては、どちらも人を殺したことに変わりないわけで、園岡えりに男が殺人者に見えたところでそれは本人の責任ではない。 「そういう事情を、あなたは誰から聞いたんです? 妹さんがあなたに話したわけですか」 「いえ、それは、死んだ主人から。その事件があったあと、五年前に主人が菜保子ちゃんを秩父《ちちぶ》の実家から引き取ったんです」 「ご主人と妹さんの実家は、秩父、ですか」 「秩父といっても市ではなく、皆野《みなの》という山の中です。山をいくつか持っていて、今でも主人の父が後妻さんと暮らしていますわ。山の暮らしに馴れた人には、東京は住みにくいようですの」 「五年前に妹さんを引き取って、東京で高校と短大に通わせた……ということは、その男と妹さんはただの同級生ではなかったわけですね」 「そういうことでしょうね。どこまでの関係だったかは知りませんけど、田舎《いなか》って、今でも近所の目がうるさいらしいですわ。男の人の家族も家を引き払って、東京に出てきているようです。主人が生きていたときには、たまにそんなことも話してくれました」 「男の名前は、ご存知ですか」 「名字《みょうじ》は野田《のだ》だったと思いますけど、下の名前までは、分かりません」 「野田という男が一年前に出所してきたことを、あなたはどこで知ったんです?」 「電話が来ましたの、その野田という人から。どこで調べたのか知りませんけど、笹塚《ささづか》のわたしの家に電話をかけてきて、菜保子ちゃんを出せって。そのときはもう主人も死んでいましたし、菜保子ちゃんも青山のマンションに移っていました。相手の人はそれを知らなかったようです。野田という名前はわたしも覚えていましたから、それでたぶん、高校のときの、その人ではないかと思ったんです」 「野田が現在でも妹さんと関係しているという、証拠のようなものがありますか」 「会社に電話がかかってきますの。わたくしも、そんなことはしたくないんですけど、相手が相手ですから、受付けの女の子に野田という名前に注意するよう頼んだんです。今でも月に一度ほど、菜保子ちゃんに電話をかけてくるようです」 「野田という男の、住所とか、電話番号とかは?」 「そこまでは、分かりません。菜保子ちゃんは知っているでしょうけど、お話ししたような事情で、わたしが訊くわけにはいかないんです。柚木さん、このこと、専門家の立場からはどう思われます?」 「野田が妹さんと付き合っていたとしても、それ自体が罪になるわけではない。刑期が済《す》んでいれば、法律的にはただの社会人です」 「ですけど……」 「妹さんが、野田との関係に触れたがらないところは、たしかに、嫌《いや》な気はしますがね」 「わたしもそう思います。問題がなければ、菜保子ちゃんも普通に話してくれるはずです。もしかしたら、わたしにも言えない、なにか事情があるような気がするんです」 「妹さんには、縁談があるんじゃないですか」 「お分かりになります?」 「勘と経験というやつです。あんな奇麗な女の子を、間りの男が放《ほう》っておくわけはない」 「ある化粧品会社の社長さんから、ご長男の相手にというお話があります。菜保子ちゃんも最初はのり気だったのに、野田という人からの電話以降、様子がおかしいんです。主人が生きていれば、なにか方法があるんでしょうけど」  園岡えりの旦那が生きていたら、どういう方法を見つけるのかは知らないが、俺としては野田の素性が分からないかざり、とりあえずは打つ手がない。それに結婚話をうまくすすめてくれという話なら、吉島冴子には悪いが、俺の出る幕ではないだろう。 「一般的に言って、こういうことは、興信所の仕事です」と、残っていた紅茶を飲み干し、煙草とライターをコートのポケットに戻しながら、欠伸を噛み殺して、俺が言った。「野田という男がどこに住んでいて、どんな仕事をしていて、妹さんと現在どういう付き合いをしているのか、興信所に調べさせたらいかがですか」 「それは出来ません。菜保子ちゃんの一生がかかっていますし、主人が生きていたとしても、興信所は使わなかったと思います」 「事実関係をはっきりさせることが、最初の問題だと思いますがね」 「そのことを、柚木さんにお願いできませんの?」 「人間を一人|捜《さが》すぐらいのことで、料金は貰えません」 「でも……」 「あなたも最初に、ただアドバイスが欲しいだけとおっしゃった」 「謝りますわ」 「いや、そういう意味では、ないんです」 「たしかにわたくし、最初は迷っていました。でも今は決心しております。今度のこと、どうしても引き受けていただきたいんです。吉島さんに言われたお金も用意してあります」  園岡えりが会釈をして立ちあがり、壁際のデスクに歩いて、中から厚い銀色の封筒を取り出して戻ってきた。 「これは野田という人を見つけて、菜保子ちゃんとの関係を調べていただくだけの料金です」と、封筒をテーブルに置き、指先で静かに押出しながら、園岡えりが言った。「調べていただいて、そのあとのことはまた別にお支払いします。それに、失礼ですけど、柚木さんにはこの問題以外でも相談にのっていただける気がするんです」  この問題以外の相談というのが、どんなものか見当もつかなかったが、目の前に置かれた銀色の封筒が、残念ながら、俺の目にはもう金色に光って見えていた。金なんか要らない、と見栄を張りたいところだが、見栄だけでは飲み屋のつけ[#「つけ」に傍点]だって払えない。それにこの問題以外のことでも園岡えりと付き合えるなら、俺は見栄なんかいつでも捨ててやる。  かなり芝居臭かったが、しばらく腕を組み、それから長く息を吐いて、封筒に手を伸ばしながら、俺が言った。 「分かりました。引き受けましょう。とりあえず事実関係を調べて、あとの処理はそのときにまた考えます」 「わたくし、肩の荷がおりましたわ」と、俺の顔を見つめながら、口元を静かに微笑ませて、園岡えりが言った。「吉島さんには、本当にいい方を紹介していただきました」 「あなた以上に、わたしのほうがそう思っています」  立ちあがって、封筒をレインコートの内ポケットにしまい、やはり立ちあがった園岡えりに、軽く、俺は会釈をした。 「なにか分かったら連絡します。一度警察と係わった人間が隠れていられるほど、日本の国は広くありません」 「この時間はわたくし、ほとんど会社におりますわ」 「もったいない気もしますがね」 「は?」 「特別に、意味はありません」  ドアのほうに歩き、送ってこようとする園岡えりを目で制して、ふと、俺はそのことを思い出した。 「一つ、訊きたいことがありました」 「どんなことでしょう?」 「例の、一ヵ月で十キロの減量コースってやつ、あれ、本当なんでしょうかね」 「正直に申しあげて、人によりけりですわね」 「人によりけり、ですか」 「人生のすべてを任せて下されば、責任を持って、十キロの休重を減らして差しあげますけど」 「人生のすべてを他人に任せる覚悟があれば、十キロぐらいの体重は、かんたんに減らせるでしょうね。わたしも暇をみて、是非一度、あなたに人生のすべてを任せてみたいもんです」 [#ここから5字下げ] * [#ここで字下げ終わり]  暗くなった空から、相変わらず霧のような雨が降りつづいている。ふだんの年のこの季節がどんなものだったか、覚えてもいないが、今年はこんなような天気がもう一週間もつづいている。そういえば夏も冷夏だったはずで、地球規模での天候異変が始まったともいう。俺が天気に文句を言っても仕方はないし、地球の環境間題を心配しても意味はないだろうが、季節や天気が曖昧《あいまい》だと、どうも人間の価値観までがいい加減になる。いい加減な価値観といい加減なプライドを抱えて、愚痴《ぐち》を言いながら、それでも俺は、しつこく生きていく。  雨の中を原宿の駅まで戻り、JRの内回りで、俺は有楽町に出た。銀座のスナックで吉島冴子と待ち合わせをしていたのだ。 『ナンバー10』には冴子が先に来ていて、カウンターのまん中で、ママの葉子《ようこ》を相手にいつものとおりドライマティーニをすすっていた。待ち合わせの喫茶店代わりに使うほど安い店ではないが、昔、葉子とヤクザとのトラブルを片づけてやった義理で、勘定《かんじょう》のほうはあるとき払いの催促なし、ということになっている。 「まったくねえ、お金さえあれば、柚木さんもいい男なのにねえ」と、冴子のとなりに座った俺に、コースターとグラスを出しながら、酒と煙草でかすれた声で、葉子が言った。 「俺に金があったら、人間がいや味になってしまうさ」 「いや味でもいいから、わたしはお金のある男が好きだわよ」 「どうした? また若い男にでも騙《だま》されたのか」 「大きなお世話よ。冴子さんと、柚木さんみたいな男は女の罰《ばち》が当たって、地獄にでも落ちればいいのにって話していたの」  バーボンの水割りが出来あがり、冴子のグラスに軽く自分のグラスを打ちつけて、俺が言った。 「例の仕事、引き受けてはきたけど、なんとなく気がすすまない」 「珍しいわね、草平さんにしては」と、目の端を皮肉っぽく笑わせ、マティーニのグラスをゆっくり口に運びながら、冴子が言った。「園岡さんは草平さんのやる気を、ちゃんと刺激したでしょう?」 「個人的にやる気を刺激されることと、事件自体への興味は、別のことさ」 「物足りない仕事だということは、最初に言ったはずだわ」 「君が俺の財布を心配してくれることには、それは、感謝してるんだ。ただ、どうもな、前科ものを一人見つけるだけで百万も貰うのは、やっぱり気が引ける」 「その理想主義、相変わらず治らないのね。お金のためだと割り切ればいいのに」 「割り切ってはいるさ。だからこそ、前金《まえきん》はしっかり貰ってきた」  一杯めの水割りを飲み干し、葉子に追加をつくらせながら、ポケットから煙草を取り出して、俺が火をつけた。 「園岡えりの旦那が死んでいること、電話で言わなかったよな」 「そうだったかしら」 「どっちでもいいけど、旦那という男に、会ったことはあるのか」 「そこまで親しくはなかったの。高校を出てからは演劇部の同窓会で会うぐらい。個人的に付き合っていたわけではないのよ」 「いい女同士に友情が生まれないのは、普遍的な真理ってことか」 「それ、褒《ほ》めてるわけ?」 「思ったことを素直に言っただけさ」 「草平さんが素直になるのは、女の人に対してだけですものね」 「俺は、すべての物事を、客観的に判断しようと努力をしている」 「姿勢だけは評価してあげるわ。でもその客観性と、園岡さんの死んだご主人と、どういう関係があるの?」 「関係はない。ただ……」 「個人的な興味?」 「それだけでもない。彼女の今度の問題には、どうも役者が一人欠けている気がする。欠けているのはたぶん、死んだ亭主だろうってことさ」  吉島冴子がマティーニのグラスを取りあげ、一口飲んで、グラスを透《す》かしながら、眉《まゆ》をしかめて小さくため息をついた。 「わたしも、詳しくは知らないけど、いい噂《うわさ》は聞かなかったわね。彼女、大学のときからイベントコンパニオンのようなことをやっていて、そのときに知り合ったらしいの。大学を出てすぐ結婚したんだけど、相手は青年実業家という噂だったわ。ただ、どうもね、そのあとの噂では、いわゆるマルチ商法のようなことをやったり、不動産のブローカーをやったりする人だったらしいの。堅気《かたぎ》の実業家ではなかったらしいわ」 「一山当てようというタイプだったわけか」 「そういうことでしょうね」 「そして最後には、エステティック・クラブで、本当に一山当ててしまった」 「彼女もそれなりに苦労はしたわけよ」 「苦労したようには、見えなかったけどな」 「電話で言わなかった?」 「彼女の、苦労をか」 「そうじゃなくて、演劇部ではスターだったこと」 「それは、聞いては、いた」 「ただ奇麗だったから、というだけではないの。芝居がうまかったのよ。ハムレットから楢山節考《ならやまぶしこう》まで、どんな役でもそつなくこなしていたわ」 「つまり……」 「つまりは、そういうことよ」  冴子の言いたいことは、園岡えりは悲劇のヒロインから汚れ役までなんでもこなす演技力があって、だから当然、俺に苦労の跡を見せないぐらいの演技は、かんたんに出来る、ということなのだろう。しかし園岡えりのあの品のいい頼りなさが、本当に、ただの演技だったのだろうか。 「自分の女を見る目に対して、自信がなくなってきた」と、丸椅子に座りなおして、水割りをすすり、新しい煙草に火をつけながら、俺が言った。 「そのうち草平さんにも分かるわよ。この世に女は、女の数だけいるものなの」 「女の数だけ、女が……な」 「誤解しないでもらいたいけど、彼女の悪口を言っているわけではないの。人は見かけによらないし、人によって価値観もいろいろだと言ってるだけ」 「価値観は、まあ、そうだな。だけどやっぱり、俺には分からない」 「なにが?」 「君が言うように、彼女にそれだけの演技力があって、あれだけの美人なら女優にだってなれたはずだ」 「草平さんのその純情なところ、わたし、好きなのよね」 「俺が……」 「園岡さんぐらいの美人でそつなく芝居ができる女優が、日本になん人いると思う? 女優として成功する条件は顔や演技力ではないの。説明のつかない、なにか存在感みたいなものなのよ。悪く言うと、もっと下品な迫力みたいなもの。そういうものがなくては、あの世界では成功しないの」 「暴力団の幹部みたいだ」 「たとえはともかく、そういうものなのよ。だから自分の資質が分かるぐらいには、園岡さんも頭が良かったということね」 「君みたいになんでも分析できたら、世界も単純だろうにな」  俺が煙草をつぶした灰皿を、葉子が取りかえ、自分でも水割りをつくって、カウンターの向こうから軽くグラスを重ねてきた。 「柚木さんて、女好きのくせに、女の本質を知らないところがあるのよね」と、流し目で俺と冴子の顔を見くらべながら、ちょっと下唇を曲げて、葉子が言った。「顔の奇麗な女が心まで奇麗なら、わたしなんか今ごろは観音様になってるわ」 「俺にとってはそのままでも、じゅうぶん観音様に見える」 「つけを催促しないスナックのママは、柚木さんにとってはみんな観音様だものね」 「今日は、なにか、日が悪いのかな」 「奥さんとのことをはっきりさせないから、周りの人間が苛々《いらいら》するんじゃないの」 「それは、俺一人が気合いを入れたって、どうなるもんでもない」  俺はなんの脈絡もなく、コスモス・ハウスで会ったインストラクターの女の子の顔を思い出したが、あのときはたしか、今日は日がいいと勝手に納得《なっとく》したものだった。会っている女が変わるたびに良くなったり悪くなったり、俺の運勢なんて、所詮はそんなものか。 「まあ、とにかく、引き受けた仕事だけはやってみるさ」と、空のグラスを葉子のほうに滑らせながら、頬杖をついて棚の酒瓶を眺めている冴子に、俺が言った。「君、また、手を貸してもらえるか」 「最初からそのつもりでいるわよ」と、眉の端を持ちあげて、諦《あきら》めたように笑いながら、冴子が言った。 「礼儀として、訊いてみたんだ」 「園岡さんの妹に付きまとっている男を、調べるのよね」 「その……」 「わたしだって警官なのよ。草平さんがどこから手をつけるかぐらい、分かっているわ」 「彼女の妹に付きまとっている男というのは、高校時代の同級生で、五年ほど前に人を殺したことがあるらしい。妹というのは死んだ亭主の妹で、園岡さんには事情を話さないそうだ」 「妹さんに直接訊くわけにはいかないの?」 「妹が本当にトラブルに巻き込まれているとしたら、こちらの手の内は明かさないほうがいい。男の姓は野田といって、事件は五年前に埼玉県の秩父で起こしている。一年ほど前に仮出所しているらしいんだが、住所が分からない。埼玉県警か、警察庁のコンピュータに当たってみてくれないか」 「野田という男の、名前のほうは?」 「分からない。野田の家族は事件のあと東京に出てきているらしいから、刑務所の面会記録には東京の住所が残っているはずだ。それに仮出所期間が終わっていなければ、県警にも現住所は登録されている。そのへんのところを、よろしく頼む」  冴子がハンドバッグから手帳を出して、メモを取ってから、手帳をまたハンドバッグに戻して、マティーニのグラスを葉子に手渡した。 「草平さん、明日は、部屋にいる?」 「雑誌の原稿もあるしな」 「正午《ひる》までには連絡できると思うわ。わたし、園岡さんと特別に仲が良かったわけではないけど、特別に悪かったわけでもないの。彼女が本当に困っているのなら、手を貸してあげたいわ」 「人は見かけによらない、な」 「なんのこと?」 「一見冷たそうに見えても、君の心はクリスマスの手袋みたいに暖かい」 「草平さん」 「うん?」 「とぼけた顔をして、どこからそんな台詞《せりふ》を出してきたのよ」 「朝から晩まで、俺が君のことを考えているからさ」 「同じことを他の女の人に言わなければ、あなたって、いい男なのにね」 「ねえ、柚木さん……」と、グラスの氷を、ごろんと鳴らして、カウンターの中から葉子が俺の前に顔を突き出した。「お店の勘定さえ払ってくれれば、あなたって、本当にいい男なのにねえ」  なにか言い返そうと思ったが、言葉が見つからず、俺は園岡えりから受け取った封筒を、仕方なくレインコートのポケットから抜き出した。別れて暮らしている女房ともいつかは結論を出さなくてはならないし、飲み屋のつけだって、いつかは払わなくてはならないのだ。 「草平さん」 「うん?」 「今夜のディナー、決めている?」 「いや……」 「わたし、レザンジュのフランス料理がいいな。懐も暖かそうだし、お勘定はもちろん草平さん持ちということで、ね」 [#ここから5字下げ] 2 [#ここで字下げ終わり]  どうってこともないが、今日も雨が降っている。新宿|御苑《ぎょえん》も赤坂離宮の森も窓の遠くに曇って見え、雨宿りの雀たちが向かいの家の軒下に声もなく集まっている。カラスだけが灰色の空を飛んでいき、雨の匂いのする空気が外堀公園の方向からクルマの騒音と電車の震動を運んでくる。  ベッドから起き出してはみたものの、仕事机に座る気にもならず、コーヒーを飲みながら、俺はもう三回も洗濯機を回していた。一週間も雨がつづいて洗濯物がたまっていたこともあったが、なんのことはない、洗濯こそが、俺の唯一《ゆいいつ》の趣味なのだ。  三回めの洗濯を済ませ、部屋中の壁と天井にハンガーと物干しサークルをぶら下げ終わったとき、電話が鳴って、出てみると、相手は吉島冴子だった。昨夜は正午までに電話をすると言ったが、壁の時計は一時半になっていた。 「昨夜《ゆうべ》はご馳走さま。草平さんにアルバイトを回したの、やっぱり正解だったわ」 「君のためなら、俺はアルバイトで銀行強盗だってしてみせる」 「天気のわりには機嫌がいいみたい」 「洗濯物を片づけて、もう一度結婚生活にも耐えられそうな気分さ」  冴子が軽く笑って、言葉を切り、気分を変えるように、電話の中で一つ咳払《せきばら》いをした。 「昨日の件、遅くなったけど、報告しておくわ。野田の名前はコウジ。さんずいに告げるの浩《こう》につかさどるの司《じ》。去年まで前橋刑務所で服役していて、八月に仮出所をしているわ。埼玉県警に届けられている現住所は、葛飾《かつしか》区の西新小岩《にししんこいわ》。番地まで言う?」 「一応、頼む」 「西新小岩。四丁目。十二番地の六。この住所は刑務所に面会に来た両親の住所としても登録されているから、仮出所後は両親の家に同居ということだわね。野田浩司の現在の仕事はスナック勤務だけど、勤めている『キャビン』というスナックは、浩司のお姉さんがやっているの。だからこれは、もしかしたら書類だけのことかも知れない」 「『キャビン』というスナックの場所は、分かるのか?」 「錦糸町《きんしちょう》になってる。錦糸二丁目というから、どうせ駅のそばでしょうね」 「これで野田浩司の一人ぐらい、いつでも死刑にできるわけだ。野田が五年前に起こした事件のほうは、どうなのかな」 「そこまでは調べられなかったわ。時間があれば、なんとかなると思うけど」 「まあ、それぐらいは自分でやるさ。アルバイトを引き受けたのは、あくまでも俺のほうだ」 「具体的な背景は分からないけど、野田が服役していた罪状は傷害と傷害致死よ。七年の実刑判決だったところを、五年で仮出所していることになるわね」 「それだけ分かればじゅうぶんだ。あとの調べは俺がやる。あまり派手に動くと、警視庁《かいしゃ》の中で君の立場がまずくなるからな」 「気を使ってもらって、お礼を言わなくちゃいけないのかしら」 「俺はいつだって君に気を使っているさ。不毛な人生において、君だけが俺の生甲斐なんだ」 「草平さん」 「なんだ?」 「酔っ払っているみたいね」 「まさか。君の声を聞いて、神経が緊張しているだけさ」 「とにかくなにか分かったら、連絡をしてね。園岡さんのことは、わたしもなんとなく気になるの」  それから二言三言、習慣になっている冗談を言い合い、電話を切って、部屋のまん中に戻りながら、俺は大きく背伸びをした。雑誌用の原稿は昨日からまったく進んでいないが、あんなものは一晩徹夜すればなんとかなる。野田の名前や住所が具体的になって、物足りなかった俺の闘争心にも、やっと気合いが入ってきたようだった。  俺は『ジャーナリズム年鑑』で『埼玉日報』という地方紙の住所を調べ、着がえと戸締まりをして、外に出た。部屋を出る前にエアコンを『除湿』にセットしたのは、帰ってくるまでにそれで洗濯物を乾かしてやろうという、一人者としての生活の知恵だった。 [#ここから5字下げ] * [#ここで字下げ終わり] 『埼玉日報』が入っているビルは、JRの浦和駅から十分ほど県庁の方向に歩いた、仲町《なかまち》という官庁街にあった。雨で湿っているせいでもないだろうが、鼠色の汚いビルで、その二階と三階が埼玉日報だった。首都圏から離れている地域では、地方紙でも中央紙に対抗するだけの発行部数と政治勢力を築けることもあるが、埼玉あたりの地方紙ではタウン紙的な役割りでしか生き残れない。その代わり県内の出来ごとなら、どんな細かい情報でも押さえていて、たとえばなんとか村のどこの農家で豚が牛の子供を育てているとか、なんとか郡の誰さんの家では子供のお年玉に耕運機を贈ったとか、そんなような情報が紙面一杯にぎっちりと詰め込まれている。それをどうでもいいと言ってしまえば、どうでもいいのだが、新聞に載《の》った自分の豚の記事を生涯の宝物として取っておく人間だって、この世にはちゃんと存在するのだ。  俺の訪ねた編集部は、三階にあって、記者が出払っている乱雑なオフィスに迎えてくれたのは、とっくに五十をすぎた感じの、頭の禿《は》げた太ったおじさんだった。名刺を渡して用件を言うと、おじさんも『埼玉日報編集長・瀬戸《せと》常夫《つねお》』という名刺を渡してくれ、空いている椅子に、手真似で俺を座らせてくれた。 「五年前というと、一九八七年ですかなあ」と、暑くもないのに、ハンカチで額の汗を拭きながら、回転椅子を軋《きし》らせて、瀬戸常夫が言った。「そういやそんな事件が、たしかにあったですなあ」 「事件を担当した記者の方は、まだ新聞社におられますか」と、レインコートを着たまま、ポケットから煙草を取り出して、俺が言った。 「そりゃあおりますがな。うちの社で殺人《ころし》を扱える記者は、一人しかいませんわ」 「待たせてもらっても構いませんかね」 「そんなことは構いませんが、待つ必要もないと思いますよ」  瀬戸常夫が自分のデスクから腰をあげ、汚いカーテンで仕切ってある物置のようなところへ入っていき、しばらくして、B4判のぶ厚い本を持って埃《ほこり》を払いながら戻ってきた。 「一九八七年の縮刷版ですわ。秩父の事件ですと、県北というページですなあ」  瀬戸常夫がその縮刷版を悠長にめくり始め、俺は煙草を吸いながら、十ほどの机が窮屈そうに詰め込まれた狭いオフィスを、改めて眺め回してみた。黒板や予定表やなにかのメモ用紙がすべての壁を埋め尽くし、それぞれの机にも書類や雑誌が競争のように積みあげられていた。下の階の人数まで含めて、総勢でも三十人ぐらいの所帯らしかった。 「ああ、ありましたなあ」と、顔をあげ、立ちあがって、ページを開いたまま瀬戸常夫が縮刷版を俺のところに運んできた。「思い出しました。そういや、この見出しもあたしが付けたんですわ」  瀬戸常夫が押さえているページには、縮小された小さい文字で、「高校生、真昼の決闘」という見出しがあって、あとには山林のような写真をつけた記事がページの五分の一ほどつづいていた。  細かい文字を追っていくと、事件が起きたのは五年前の九月十六日で、秩父市郊外の山林で高校生三人が乱闘し、一人が脳挫傷《のうざしょう》で死亡、一人が顎の骨を折る重傷を負ったという。死んだ生徒の名前は矢島《やじま》義光《よしみつ》で、重傷を負ったほうは黒沢《くろさわ》研次《けんじ》だったが、加害者の名前は未成年であるため、少年Aとなっていた。この少年Aが野田浩司であることは間ちがいないが、三人が乱闘した原因は、少年Aの同級生である女子高校生だったという。記事にはそれ以上の内容はなく、女子高校生のなにが乱闘の原因だったかは書かれていなかった。前後の経緯《いきさつ》からして、「女子高校生」が園岡菜保子であることも、間ちがいはない。  コピーを取るまでもなかったので、俺は必要な部分だけを手帳にメモし、縮刷版を瀬戸常夫に返して、また、新しい煙草に火をつけた。 「もっと具体的な状況を聞きたいですね。やはり、この記事を書いた記者の方を待たせてもらいます」 「その必要はないと言いましたがね」と、自分の席には戻らず、すぐそばの椅子を跨《また》いで座り、やはり煙草に火をつけて、瀬戸常夫が言った。「うちの社に殺人を扱える記者は一人しかいません。つまり、このあたしということですなあ」  瀬戸常夫が長く煙を吐き、赤ら顔を人なつこそうに歪《ゆが》めて、禿げあがった額に浮いた汗を、ハンカチでていねいに拭き取った。殺人を扱える記者は一人しかいないと断言するわりには、感動をするほどの文章でもない。 「どうも、背景をわざと曖昧にしてあるように見えるんですが」と、旨《うま》そうに煙草を吸う瀬戸常夫の顔を、しばらく観察してから、俺が言った。「現地での取材も、瀬戸さんがされたんでしょう?」 「そりゃあんた、秩父あたりでは大事件でしたからなあ、あたしもあっちの警察に、三日ほど泊まり込みましたよ」 「この記事では、喧嘩の原因がはっきりしませんね」 「いろいろとねえ、なんせ加害者も被害者も未成年なもんで、そのへんの制約があったんですわ。それに秩父あたりの農家には結構うちの新聞が入っておるんで、いわゆる地域感情というやつも考慮せにゃいかんし」 「当時の取材資料のようなものは、残っていますか」 「そんなもの残っちゃおりませんが、思い出せることはお話できますよ。見かけによらず、あたしは記憶力がいいほうなんでね」  煙草を灰皿でつぶし、手帳にメモの用意をしながら、一つうなずいて、俺が言った。 「で、この、喧嘩の原因というのは?」 「よくありがちな、あれ[#「あれ」に傍点]ですわ。その死んだ矢島義光ってのが、加害者の彼女である女生徒にちょっかいを出したんですなあ。記事には出来ませんでしたが、まあ、強姦ってやつです」 「矢島義光と、黒沢研次の、二人で?」 「黒沢ってのは矢島の子分みたいなもんで、矢島の乱暴を手伝っただけですわ。二人とも近所では有名な不良ということでした。もっとも強姦のほうは、実証もされなかったし、女の子も証言をしなかったようでしたがね」 「加害者は野田浩司、女生徒は園岡菜保子。それで、間ちがいありませんね」 「よくお調べですなあ。いやね、名前のほうまでは覚えておりませんが、二人ともたしか、そういう名字でした。野田の家は秩父の市内で野田薬局というのをやっておって、女の子のほうは皆野でも有名な山持ちの娘でしたわ」 「野田浩司の評判は、どんなものでした?」 「こいつがまあ、ちょっと派手な子供でね、アマチュアボクシングではいいところまで行ったようです。バンタム級で、国体にも出たということでした」  なるほど、野田浩司がどうやって二人の不良を相手にしたのか、そこが不思議だったが、ボクシングで国体に出たというのなら、この結果も納得できる。ボクシングの心得がある者が本気で人間を殴ったら、打ちどころによっては、相手を殺してしまうこともあるだろう。 「矢島と黒沢は、たか[#「たか」に傍点]をくくっていたんですなあ。自分たちは喧嘩なれしてるし、野田がいくらボクシングが強くても、二人でかかれば負けないとでも思ったんでしょうよ。不良の頭の程度なんて、そんなものですわ」 「裁判は、当然、非公開だったわけでしょう?」 「そのようでしたなあ。あれ以上記事になりそうもないんで、あたしもフォローはしませんでしたが」 「顎の骨を折られた黒沢研次という男が、その後どうしているかは、分かりませんか」 「そこまでは分かりませんなあ。たしか、大滝《おおたき》村の、百姓の次男坊だったと思いますがね」  五年前の事件の構図が分かり、事件に登場した人物の名前も人間関係も分かって、とりあえず、瀬戸常夫から引き出す情報はなくなったようだった。問題は五年前のこの事件を引きずって、野田浩司と園岡菜保子が現在どういう関係になっているのか、ということになる。出所した野田浩司と園岡菜保子が五年前の恋愛関係に戻っているだけなら、園岡えりが心配する必要もないし、俺の出る幕もない。  立ちあがって、手帳をレインコートのポケットにしまい、瀬戸常夫に礼を言って、俺は埼玉日報を出た。雨は相変わらず降っていたが、傘を差すほどの雨足ではなかった。途中の蕎麦《そば》屋でてんぷら蕎麦を食って、浦和駅に戻ったときは、もう夕方の五時になっていた。 [#ここから5字下げ] * [#ここで字下げ終わり]  このまま錦糸町のキャビンというスナックに回ってみようかとも思ったが、時間的に中途半端《ちゅうとはんぱ》で、俺は一度自分の部屋に戻ってから、時間をみてもう一度出なおすことにした。飲み屋に行くにはそれなりに適当な時間があるし、雑誌の原稿だっていくらかは進めなくてはならない。アルバイトで私立探偵の真似ごとをやってはいるが、俺の本業は、あくまでも刑事事件専門のフリーライターなのだ。  部屋に着いたのは六時で、洗濯物が乾いていることを確かめ、始末に取りかかったとき、チャイムが鳴って、出てみると訪ねてきたのは顎の関節が外れるほど意外な人間だった。警察をやめてから三年になるが、当時の同僚が訪ねてくることはなかったし、俺のほうでも呼び出したり会いにいったりすることはなかった。 「お久しぶりですなあ、柚木さん」  細い目を精一杯見開いて、半分以上白くなった角刈りの頭を、ひょいとすくめてみせたのは、三年前まで俺の部下だった警視庁捜査一課の山川《やまかわ》六助《ろくすけ》だった。部下といっても歳は俺より遥《はる》かに上で、記憶が正しければそろそろ定年に近いはずだった。山川は俺の知らない若い刑事を一人つれていて、つまりは、この訪問が山川の私用ではないということだろう。最近レポートの中で警察批判をやってしまったから、お偉方の意向を受けて苦情でも言いに来たのか。 「たまたまそばを通りがかったわけでもなさそうだ。とにかく、入って下さい」  二人の刑事を部屋にあげて、ソファに座らせ、洗濯物を片づけてから、インスタントのコーヒーを二つ作って俺もソファに腰をおろした。 「こっち、今年杉並署から回ってきた鳥井《とりい》くんでして、まあ、世代交替の要員ってやつです」 「山川さん、定年はいつでしたっけね」 「来年の春ですよ。そろそろ次の就職先を決めにゃならんのですが、警備会社やパチンコ屋というのも、一息気がすすみませんでなあ」 「山川さんぐらいのベテランなら、仕事はいくらでもあるでしょう」 「そう願いたいもんです。警備や公安関係なら天下《あまくだ》り先もあるんですが、殺人《ころし》専門っていうのは、どうも割りが悪くてね。柚木さんがあのとき見切りをつけたのは、正解だったかも知れませんなあ」 「で、山川さんがわざわざ見えられたご用は、例の、わたしの記事のことですか」 「いやいや。あの記事はあたしも読ませていただきまして、内心は喜んでおるぐらいです。そういうことじゃなくて、まあ、今日の用件は純粋な商売ってやつです」  山川と若い刑事が、二人揃ってコーヒーをすすり、カップを置いて、それから山川のほうだけ、ちょっと替え上着の肩を前に突き出した。 「単刀直入にお訊きしますが、柚木さん、園岡えりという女性とは、どういうご関係なんです?」 「園岡……」 「ご存知ではあるわけでしょう?」 「もちろん、知っては、いますが」 「率直に、お聞かせ願えませんかね」 「山川さん」 「いえね、相手が柚木さんだから下手《へた》な駆け引きはしませんが、実は、園岡えりが殺されたんですよ」  煙草に伸ばそうとしていた俺の手が、無意識に止まり、俺は腕を組んで、ソファの背凭れに深く沈み込んだ。殺したの殺されたのなんて話題には、煙草の灰が膝に落ちたほどにも驚かないが、しかしあの園岡えりが殺されたというのは、いったい、どういうことか。 「山川さんが冗談を言いにきたとは思わないが、どうも、話が、ピンときませんね」 「ごもっともですが、あたしにしても、定年を前にして柚木さんに人生相談をしたいわけではないんです。どうですか、園岡えりの関係を、かんたんに話してはもらえませんか」 「かんたんにといっても……」  正直に話せば、俺と吉島冴子の関係も話さなくてはならないし、それでは警視庁での冴子の立場が苦しくなる。問題が大きくなれば、大阪の地方検察庁に出向している冴子の亭主にも俺たちの関係は知られてしまう。山川がなにを掴《つか》んでいるのかは知らないが、今日ここへやって来たのは、昨日俺が園岡えりに渡した名刺が原因なのだろう。 「わたしも山川さんを相手に駆け引きはしませんが、かんたんに言うと、園岡さんに、妹さんのことで仕事を頼まれたと、そういうことです」 「妹のこと、ですか」 「死んだ旦那の妹で、正確には義理の妹なんですがね、その妹に悪い虫が付いたようで、事実関係を調べてほしいという依頼でした」 「柚木さんは、今、そういうお仕事もされているわけですか」 「ほんのアルバイトですよ。雑誌の取材で園岡さんと知り合って、話しのついでに、ちょっと調べてみてくれ、ということになったわけです。妹さんにはいいところから縁談があるようで、園岡さんとしても、妹さんの素行が心配になったんでしょうね」 「なるほど。ジャーナリストというのも、いろんな仕事をせにゃいかんわけですなあ。それで、調査のほうは、どこまで進んでおるんです?」 「園岡さんから頼まれたのが昨日の夕方で、まだ手を付けていないんです。彼女が死んだとなると、仕事自体がキャンセルでしょうね」 「その『悪い虫』の件、警察のほうで調べてみにゃいかんですかな。名前は、分かっておるんですか」 「野田なんとかいうようです。妹さんには気づかれずに調べてくれということで、彼女に尾行でもかけてみようと思っていたところです」 「野田、なんとか、ねえ」 「殺されたと言われても、どうにも信じられないが、具体的な状況は、どういうことなんです?」 「今朝の十時に発見されて、まだ初動捜査が始まったばかりなんですよ。詳しいことはなにも分かっておりません。被害者の自宅のテーブルに柚木さんの名刺が置かれていて、それで、こうやって伺《うかが》ったわけです」 「殺されたのは、自宅ですか」 「笹塚の中野通り近くにある、3LDKの自宅マンションです。発見者はその時間に帰宅した、被害者の母親なんですがね」 「朝の十時に、母親が、帰宅?」 「被害者の亭主が死んで以来、母親が同居していたらしいんですが、たまたま前の日は中野にある兄夫婦の家に泊まったということです。兄夫婦の家というのが、被害者の実家でもあるんですな」 「子供は、どうしていたんです?」 「園岡えりに子供はおりませんよ。生まなかったのか、生まれなかったのかは知りませんがね。柚木さん、ご存知なかったんですか」 「そういうことを訊くほど、親しくありませんでした」  二年前に亭主が死んで、子供がいなければ籍を抜いていると思ったのは、たんなる俺の思い込みだった。子供がいなくても籍を抜かない女はいるし、死んだ亭主が忘れられなければ、姓もそのままにしておきたいと思うだろう。 「殺された、その、状況なんですが……」と、園岡えりの死に、いくらか実感が湧いてきて、煙草に火をつけながら、俺が言った。「死因なんかは、もう分かっているんでしょう?」 「司法解剖をやっておる最中ですが、あたしの見たところでは、鈍器による撲殺《ぼくさつ》ですな。凶器はまだ発見されておりません」 「室内に、争った形跡は?」 「それも見当たらんのです。不意を突かれたか、まあ、顔見知りの犯行といった線でしょう」 「犯人はどうやって中に入ったんですかね」 「窓から侵入した形跡もありませんし、被害者が、自分でドアを開けて犯人を迎え入れたようです。母親が帰宅したとき、ドアに鍵は掛かっていなかったと証言しています」 「室内が物色《ぶっしょく》された様子は、当然、ない?」 「そういうことですな。つまり、物取りの犯行とは考えられんわけです」 「死亡推定時刻は、どうなっています?」 「解剖が済みませんとはっきりは言えませんが、死後硬直の程度から見て、昨夜の十二時から、前後の一、二時間というところでしょう。初動捜査班が全力をあげて、付近の聞き込みをやっておるところです。ただ……」  コーヒーをすすり、ちらっと若い刑事の顔を見てから、俺の吸っている煙草に目を細めて、山川が息苦しそうなため息をついた。 「その、凶器と思える鈍器はまだ発見されておらんのですが、どうも、腑《ふ》に落ちんことがあるんです」 「よかったら、煙草、どうです?」 「は……いえ、生意気に禁煙をやっておりましてな、やっと二ヵ月たったところなんです。で、その、腑に落ちんというのは、被害者が鈍器で殴られた場所なんですよ。柚木さんに講釈は要らんでしょうが、普通は、うしろから殴りかかれば後頭部、前からなら額か、側頭部でもかなり上の部分になるはずなんですが、この被害者、顎をやられておるんです。打撲痕は素手《すで》で殴られたものとは思えませんし、柚木さんなら、どうお考えでしょうな」 「顎をやられて、しかし、打撲痕は、素手のものではない」 「犯人が背の低いやつで、下から凶器を振りあげた、ということなんでしょうかなあ」 「現場を見ないと、なんとも言えませんね。それにわたしは現役ではありません。推理も捜査も、山川さんにお任せします」 「そりゃまあ、そうですな。昔の癖で、つい柚木さんにお訊きしてしまった」  山川六助が、煙草に未練が残っている顔でコーヒーを飲み干し、若い刑事に合図をして、背中を丸めながら立ちあがった。 「お忙しいところをお邪魔しました。柚木さんとしては、園岡えりに恨みを持っていたような人物に、お心当たりはないでしょうな」 「思い付きませんね。そこまで親しい関係ではありませんでした」 「そうでしょうな。ところで、例の、あれなんですが……」 「昨夜の、十二時前後のアリバイですか」 「いや、まことに、恐縮です」 「十一時まで銀座のレザンジュというレストランにいて、それからここに帰ってきて、一人で寝ていました。電話もかかってこなかったから、アリバイは成り立ちませんね」 「犯行時間が午後の十一時なら、立派なアリバイになりますよ。十二時だとしても、銀座から笹塚までではちょいときついでしょう。まあ、柚木さんを疑っているわけではないんですがね。とにかく、もう少し捜査を進めてみませんと、はっきりしたことは分からんということです。で、そのレストランには、お一人で?」 「最近つき合い始めた若い女の子と一緒でした。レストランで裏が取れなかったら白状しますが、今のところは、勘弁してもらいたいですね」 「そういうことなら、そうしておきましょうか。どっちみち柚木さんが犯人だったら、あたしなんかに捕まるはずはないですしな。それに今度の事件は顔見知りの犯行です。こういう事件《やま》はだいたい二、三日で解決するもんですよ。それも、柚木さんに講釈することではなかったか……」  二人の刑事が帰ったあと、コーヒーのカップを片づけ、冷蔵庫から缶ビールを出してきて、俺はソファに脚を投げ出してひっくり返った。山川たちの前では神経を緊張させていたが、一人になってビールを飲み始めてみると、園岡えりの死が圧倒的な現実感で躰に覆い被《かぶ》さってきた。人が死ぬことぐらい珍しくもないし、殺人事件だって年間で千三百件も起こっている。警官の時代もフリーライターになってからも、俺は人生のほとんどを人殺しと一緒に過ごしてきた。園岡えりの死だけが特別であるはずもないのに、園岡えりの死だけが、やはり、特別に俺の気分をやるせなくさせる。女に一目惚れをするほど純情ではないと思いながら、俺は昨日、園岡えりに一目惚れをしていたのだ。事件がどういう方向に進むにしても、もう少し早く仕事に取りかかっていたら、もう一週間園岡えりに会うのが早かったら、もしかしたら、今度の事件は防げたかもしれない。ながし[#「ながし」に傍点]や物取りの犯行でないことがはっきりしている以上、私生活か、仕事上のトラブルが原因であることに間ちがいない。今の時点で結論を出すわけにもいかないが、園岡えりに依頼された調査の内容が、事件のどこかに関係している気がしてならない。偶然と言ってしまえばそれまでだが、五年前に矢島義光という不良が殴り殺され、黒沢研次が顎の骨を折られ、そして昨夜、園岡えりが顎を殴られて殺された。この三人には背景に共通項があって、その共通項は野田浩司が結んでいる。常識から言っても、経験から言っても、こんな事件がただの偶然であるはずはないのだ。  電話が鳴ったが、相手は予想どおり吉島冴子で、声に混ざっている雑音からすると、電話をかけている場所は警視庁の中ではなさそうだった。 「大変なことになってしまったわね。草平さん、知っている?」 「今一課の山川がやって来た。俺の名刺が、彼女の部屋にあったらしい」 「園岡さんから相談を受けたときから、嫌《いや》な予感はしていたの。まさか、こんなことになるとまでは、思わなかったけど」 「人は見かけによらないという、あのことか」 「そうかも知れないけど、はっきりと、どこがどういうふうにおかしいとか、そういうことではないのよ」 「事件が片づけばはっきりするさ」 「草平さんは、山川さんに、どこまで喋《しゃべ》ったの?」 「君のことは除いて、彼女から頼まれた仕事の内容は話してやった。全部とぼけるとかえって怪しまれる」 「わたしたちの関係、隠し切れると思う?」 「隠してみるさ。山川も言ってたが、こういう事件は意外に早く片づくもんだ。俺にも心当たりはある。犯人さえあがれば俺と君のことは関係はない。ただ、念のため、事件が片づくまで連絡は寄越《よこ》さないほうがいい。この電話、外からか?」 「駅の公衆電話」 「それがいい。俺も当分、警視庁《かいしゃ》には電話をしないことにする」 「彼が大阪から帰ってきて、二、三日東京にいるの。だから……」 「分かった。家にも電話はしない。とにかく、事件が片づくまで君は動かないほうがいい。あとの始末は俺がやる。俺がやらなかったら警察がやるし、どっちみち、一週間とはかからない。これぐらいのことはいくらでも経験してきた」 「草平さん、無理はしないでね」 「無理って?」 「あなた、本気になるとけっこう無茶をする性格だから。いざとなったらわたしたちの関係が知られることぐらい、覚悟はしているわ」 「つまらない覚悟はしなくていいんだ。君を女性初の警視総監にするのが、俺の昔からの夢なんだから」 「草平さん……」 「なんだよ」 「昨夜《ゆうべ》言ったこと、取り消そうかな」 「昨夜言った、なに?」 「他の女の人にきょろきょろしなければ、本当にいい男だと言ったこと。少しぐらいきょろきょろしても、許してあげなくちゃね」 「分かっていないんだろうな」 「そう?」 「君に会ったときから、俺は君以外の女のことなんか考えたこともない。朝から晩まで、ずっと君のことだけを考えている。俺の人生は君のためだけにあるんだ。誓ってもいい。俺が他の女にきょろきょろするように見えるのは、たんに、俺のそういう目つきなんだ」  どうでもいいが、しかし、我ながら、なんといういい加減な性格なのか。  電話を切って、ソファまで戻り、ビールの残りを飲み干して、俺はまた脚を投げ出してひっくり返った。閉じた目の内側に園岡えりの笑顔が浮かびあがって、一瞬、俺は胸が苦しくなった。どうでもいいが、こういういい加減な性格を引きずって、我ながら、よくもまあ三十八年間も生きてきたものだ。俺の目に涙が滲《にじ》んできたが、その涙の意味を、今は分析する気にもならなかった。 [#ここから5字下げ] 3 [#ここで字下げ終わり]  雨粒が落ちてこないだけまし[#「まし」に傍点]、という重く曇った空を、汚い色の鳩《はと》が群れをつくって低く飛んでいく。高い木もない殺風景な寺の境内《けいだい》に、喪服の団休が四、五人ずつかたまって焼香が始まる時間を待っている。この二日間新聞の都内版にはすべて目を通していたが、園岡えりの葬儀に関する告知はどの新聞にも載らなかった。俺が葬式の場所を知ったのはコスモス・ハウスに問い合わせたからで、中野の伝通寺という寺に思ったより少ない参列者は、園岡えりの死に方を憚った身内の都合なのだろう。  俺は本堂から離れた石灯籠《いしどうろう》の脇に立ち、もう三十分も前から、集まってくる参列者の顔を注意して眺めていた。知っている人間がいるはずもないが、被害者の葬式には事件解決の緒《いとぐち》が隠されていることも、なくはない。刑事だった頃の癖が抜けないというよりも、これは、園岡えりに対する個人的な礼儀なのだ。個人的な思い込みとして、俺は、事件の結末を見届けてみたい。  肩を叩《たた》かれ、振りむくと、背中を丸めた山川六助が立っていて、鈍い色に光らせた細い目で下から俺の顔を覗き込んできた。 「考えることは同じですなあ。葬儀の参列者に犯人を捜せというのは、捜査のイロハですからなあ」 「犯人捜しは山川さんに任せていますよ。わたしは生前の縁で、焼香をしたいと思っただけです」 「結果は同じでしょう。まあ、警察を出し抜くことだけは勘弁してもらいたいですな。定年を前に、あたしの経歴に傷をつけんで下さいよ」  山川のその口ぶりは、皮肉を言っているものではなく、捜査が順調に進んでいることの自信が現れているものだった。 「犯人像が浮かんでいるようですね」と、境内を見回しながら、煙草に火をつけて、俺が言った。 「絞り込まれてはきましたが、もう一息といったところですかなあ」 「犯行に使われた凶器は、発見されたんですか」 「そいつがなかなか、見つからんのです。凶器の種類も特定出来ん状況ですよ」 「司法解剖のほうは、どうなりました?」 「だいたいは一昨日《おととい》お話ししたとおりです。胃の内容物から、死亡時刻は三日前の深夜十一時以前と断定されました。被害者は午後の八時に会社の人間とイタリア料理を食べていまして、そこから割り出したんですな。午後の十一時前後ということですから、柚木さんのアリバイも成立したわけです」 「直接の、死因は?」 「顎を鈍器で殴打《おうだ》されたことによる頸椎《けいつい》の骨折ですが、肋骨《ろっこつ》も二本折れていました。よっぽど被害者を憎んでいたか、犯人が錯乱をしていたか、どちらかでしょうなあ」 「現場付近で、目撃者は出ていますか」 「ちらほらと、というところです。夜中の十一時といっても笹塚ですから、人が誰も通らんということはないわけです」 「なん人か、目撃者が、いる?」 「あくまでもマンションの、現場付近での話ですよ。犯行を直接目撃した人間はおりません。そんなのがいたら犯人はもう捕まっています」 「山川さんの勘でも、怨恨《えんこん》の線ですかね」 「なんとも申しあげられませんが、柚木さんの考えているとおりで、正解ということにしておきましょうか」 「葬式にきている連中は、どういう顔ぶれなんです?」 「身内と、会社の主だったところと、あとは故人の親しかった関係だけということらしいですな。喪主は母親の西条《さいじょう》とよ子です。理屈から言えば園岡の家から葬式を出すところでしょうが、なんせ、先方は秩父の山の中ですから。それで故人の実家からということになったようです」 「彼女の、死んだ亭主の父親というのは、どの男ですか」 「父親は来ておらんようです。参列者名簿でも、園岡の家の人間は義理の妹の菜保子一人でした。籍は抜いていないといっても、園岡の家とは縁が薄かったんでしょうなあ」  そのとき、四谷のマンションにもやって来た鳥井とかいう若い刑事が、小走りに近づいてきて、俺には背中を向けて山川になにか耳打ちをした。  山川の丸い背中が伸びあがり、湿度の高い空気の中で、角刈りの半白の頭がゆっくりと門のほうにかたむいた。小さくてよくは聞こえなかったが、口の中で、山川は「ほうほう」とうなずいているようだった。 「いや、急用ができましてな、あたしはちょいと失礼します」と、俺の顔と、もう歩き出した鳥井刑事のうしろ姿を見くらべながら、山川が言った。「瓢箪《ひょうたん》から駒というやつですよ。柚木さんのほうは、まあ、ゆっくり焼香でもしていて下さい」 「山川さん」 「はあ?」 「なにが分かったんです?」  歩いていた二、三歩の距離を、満足そうな顔で戻ってきて、細い目を見開きながら、山川がにやっと笑った。 「最初に申しあげたとおり、こういう事件は案外かんたんに片づくもんですな。鑑識のほうから、指紋についての報告が入りましたよ」 「それで?」 「一つ、妙な人間の指紋が出てきたそうです。お分かりですかな」 「野田……ですか」 「さすがは柚木さんだ。もっともあたしのほうも、園岡菜保子から事情を聞いて野田に目星をつけてはいたんですがね。これで九分九厘事件は解決です。所轄の連中が野田の身柄を拘束したそうですよ。ま、いろいろと、お騒がせをいたしました」  山川が歳のわりには身軽に歩いていき、その姿が門の外に消えるまで見送ってから、俺は地面に煙草を捨てて、靴の底で強く踏みつぶした。野田浩司が今度の事件に関係していることは予想していたが、現場に指紋まで残しているとは、思ってもいなかった。人間を一人殺したにしてはあまりにも初歩的なミスだったが、初歩的なミスをするからこそ、警察だって犯人を割り出せるのだ。野田の取り調べが始まれば動機も事実関係も、どうせすぐに判明する。それがどんなものか、想像もつかないが、園岡菜保子との間になにかのトラブルがあったことは間ちがいない。園岡えりは、そのトラブルにただ巻き込まれただけなのか。しかし顔見知りでもない野田浩司を、夜の十一時に、なぜ園岡えりは自宅に入れたりしたのだろう。だいいち菜保子は警察に事情を話したというが、野田浩司について、いったいどんな事情を話したというのか。  葬儀が始まり、境内に散らばっていた参列者が本堂の前に列をつくり始め、俺も石灯籠から離れて、焼香の列に知らん顔をして紛《まぎ》れ込んだ。俺一人だけが部外者のようだったが、焼香をするかしないかは、気持ちの問題なのだ。  そのうち順番がきて、安置された園岡えりの柩《ひつぎ》と顔写真に合掌《がっしょう》をし、焼香を済ませてから、俺は本堂に並んだ遺族の列に園岡菜保子の姿を探してみた。菜保子は喪服のワンピースの上に丈《たけ》の短いジャケットを着て、喪主らしい女のとなりに正座をして座っていた。髪をアップにした卵形の顔は、不謹慎を承知で感想を言えば、ため息が出るほど奇麗だった。顔を伏せているせいか、三日前のように目のきつい印象も感じられなかった。こんなに若くて、こんなに奇麗な女の子が、これからはコスモス・ハウスのオーナーなのだ。  焼香の列から離れ、本堂の石段をくだって、出棺まで立ち合おうかと考え始めたとき、前を歩いていた女が突然ふり返り、目をびっくりしたように見開いて正面から俺の顔を覗き込んできた。そんな真剣な目で見つめられても、とっさには、女の顔を思い出すこともできなかった。 「やっぱり、そうですよねえ」 「ん……」 「三日前、コスモス・ハウスのロビーで会った人ですよねえ」  女に言われて、やっと思い出したが、ショートボブの髪の下に小さく納まっている人なつこい顔は、コスモス・ハウスでエアロビクスのインストラクターをやっているとかいう、あの肉感的な脚の女の子だった。髪形も表情も三日前のままだったが、黒い喪服が女の子に別人のような印象を与えていた。 「ああ、あの、君か……」 「思い出しました?」 「思い出した。エアロビクスをする小父さんは死刑にするべきだと言った、あの子だよな」 「そこまで言いませんでしたよ」 「口では言わなくても、目はちゃんとそう言っていた」 「わたしは、運動にも歳に相応《ふさわ》しい方法があるって、そう言っただけです」  言い方はどうだったか覚えていないが、要するに女の子は、人間には分相応な生き方しか似合わないという悪魔的な真理を言っているのだ。 「君がここにいるのは、当然だったか」 「そうでもないです。わたしは社長に、義理があっただけです。他のアルバイトは来ていません」 「君、アルバイトなのか」 「契約社員ですけど、アルバイトみたいなもんです。お客さんは、どうしてお葬式に来たんですか」 「いろいろ、こっちの都合だ」 「変ですねえ、三日前入会したばかりの人が、社長のお葬式に見えるなんて」 「やっぱり、変か?」 「変ですよ。本当は、会員の人じゃないんでしょう」 「三日前は、用があって園岡さんに会いに行っただけだ」 「そうですよね。わたしもあとで考えて、おかしいと思いました。お客さんみたいな人がエステに通うはず、ないですものね」 「客じゃないと言ったろう。雑誌の仕事で、園岡さんにインタビューをした」 「へええ」 「まさか、こんなことになるとは、な」 「わたし、梅村《うめむら》美希《みき》です」 「ん?」 「わたしの名前です」 「俺は、柚木だ」 「梅と柚《ゆず》で、相性がいいじゃないですか」 「考え方の、問題だろうな」 「社長には、どんなことをインタビューしたんですか」 「業界全般の見通しや、コスモス・ハウスの、展望なんかをな……みんな無駄になってしまった」 「そうですね。なにもかも、みんな無駄になりましたね」  梅村美希という女の子が、ボブカットの前髪を指の先で払い、二、三歩先に歩いてから、立ち止まって肩ごと俺のほうにふり返った。最後の台詞と、ふり返ったときの表情が、なんとなく俺の気分に引っかかった。 「君、おきよめ[#「おきよめ」に傍点]まで、付き合うのか?」 「そのことを今、わたしも訊こうと思いました」 「俺は焼香だけでいい。気持ちの問題なんだ」 「わたしもそうです。こんな服を着て、みんなでぞろぞろお料理屋さんに行くなんて、趣味じゃないです」 「死刑はご免だけどな」 「なんですか」 「君を昼飯に誘いたいけど、死刑だけは勘弁してくれってことさ」  梅村美希が口を開けて笑ったが、それは葬式にも梅村美希が着ている喪服にも、困るほど似合わない笑い方だった。失礼と言えば失礼だが、不愉快な笑顔ではない。 [#ここから5字下げ] * [#ここで字下げ終わり]  中野駅の近くまで歩き、俺たちが入ったのは、ブロードウェイを脇道に入ったところにある造作の新しい鰻屋《うなぎや》だった。昼飯時を過ぎていて、客は少なく、俺たちは衝立《ついたて》で仕切られた座敷に靴を脱いであがり込んだ。俺が頼んだのはビールとかば焼きだったが、梅村美希のほうは、しっかりと特上[#「特上」に傍点]のうな重を注文してくれた。 「君が寺で言った、社長への義理というのは、あれは、どういうことなんだ?」と、やってきたビールを二つのコップに注ぎ、とりあえずコップを重ねてから、俺が言った。「アルバイトだったら、葬式に来るほどの義理はないだろう」 「仕事のことではないんです。芝居のほうです」と、気楽にビールを飲み干し、ほっと一つ息を吐いて、梅村美希が答えた。「わたし、劇団に入っていて、社長はいつもチケットをまとめ買いしてくれました。昔、自分でも芝居をしていたことがあったそうです」 「君、本職は、役者なのか」 「小さい劇団ですけどね。一応、新劇です」 「見かけによらないな」 「そうですか」 「新劇の役者って、もっと暗い連中かと思っていた」 「わたしだってじゅうぶん暗いですよ。自分の暗さが、自分で嫌になることがあります」 「人生ってのは、難しいもんだな」 「柚木さんは雑誌の記者ですか」 「フリーのな」 「そうですよね。堅気《かたぎ》には見えませんからね」  ビールを飲み干し、自分でコップに注ぎ足してから、ネクタイを弛《ゆる》めて、俺が言った。 「園岡さんが殺されたことで、なにか、引っかかることがあるのか」 「別になにも、引っかかりません」 「そうかな。俺には、そうは見えない」 「これでコスモス・ハウスも終わりかなあって、そう思っただけです」 「終わり?」 「どっちでもいいです。わたし、もう、やめることにしました」 「小父さんを相手に、エアロビクスは教えられないか」 「そういうことじゃなくて、あの会社、わたしには向かないんです。社長にチケットを引き受けてもらえるのは嬉しかったけど、経営方針自体は、前からずっと嫌だと思っていました」  俺が注ぎ足してやったビールを、今度は静かに半分ほど飲み、首をかしげて、梅村美希が軽く眉をしかめた。 「世話になっていたくせに、死んだからって悪口を言うの、嫌な性格ですよね」 「君は、客観的に物を見ているだけさ」 「本当に、そう思います?」 「そう思う。三日前俺に、『自分の目で確かめてから入会しろ』と言ったのは、そういう意味だった」 「はい……」 「コスモス・ハウスの経営方針というのは、どういうことなんだ?」 「それは、その、無理やり必要もない美容整形を受けさせたり、高い化粧品を買わせたり、それから、マルチ商法みたいに会員を集めたり……あの社長がそんなことをするなんて、最初は信じられませんでした」 「マルチ、商法、か」 「会員がどんどん下の会員を集めていって、段階があがると幹部会員になって、マージンが出るんです。そういうのって、マルチ商法と同じでしょう? 同じやり方で皺取りクリームや痩せ薬を売りつけるんです」  似たような話は、美容薬や化粧品に関して聞いたことはあるが、コスモス・ハウスがそれをやっていたとは、すぐには信じたくない気分だった。コスモス・ハウスがやっていたということは、あの園岡えりがやっていた、ということではないか。 「君は、コスモス・ハウスに、どれぐらい勤めているんだ?」 「二年と、ちょっとです」 「君が入ったときから、同じ商売のやり方をしていたのか」 「わたしが入る少し前に社長が替わって、それで、始めたそうです」  思い出したが、吉島冴子は、園岡えりの死んだ亭主は不動産ブローカーやマルチ商法をやっていた男だと言っていた。園岡えりがマルチのやり方を知っていたことは、じゅうぶん考えられる。二年前といえば亭主に代わって園岡えりが社長になったころで、つまり、そのマルチまがいの商売は園岡えり自身が始めたことになる。信じたくはなかったが、それなら梅村美希が俺に嘘を言う必要だって、どこにもないのだ。 「嫌な話でしょう? でも社長が、こんなことになってしまって、わたし、誰かに喋りたかったんです。どうして柚木さんに喋るのかは、自分でも分かりませんけど」 「今のこと、警察には、言ったのか」 「言いませんよ。社長が殺されたこととは、直接には関係ありませんから」 「関係がなければ、たしかに、俺もそのほうがいい」  かば焼きと特上[#「特上」に傍点]うな重が出来あがり、梅村美希がお辞儀をして箸を取りあげ、俺のほうはなんとなく物足りなくて、酔いが顔に出るのを承知でビールを追加した。女が女の数だけいることぐらい、俺だって生まれたときから知っているが、園岡えりの実像に関しては、まだ信じる気にはならなかった。 「君がさっき言った、コスモス・ハウスもこれで終わりかというのは、社長が死んだから、という意味か」 「あれは、別に、意味はないです。誰かが社長になって、これからも同じやり方をするかも知れません。でもスタッフの中には社長を個人的に崇拝していた人もいますから、今までどおりには、いかないと思います」 「次の社長には、義理の妹の、菜保子さんがなるんだろう」 「さあ……」 「ちがうのか」 「知りませんよ。経営の内容について、わたしなんかが知るはずはないです。でも、ちょっと前から、へんな噂《うわさ》はあります」 「へんな、噂?」 「倒産するとか、吸収されるとか。本当のことは分かりませんけど、でもわたし、一ヵ月ぐらい前、嫌なものを見てしまいました。吸収されるという噂は本当かも知れません」 「嫌なものというのは、園岡社長に関して、か」  梅村美希が、口を動かしたままこっくりをし、湯呑《ゆのみ》の茶をすすって、肩で小さくため息をついた。 「こんなこと、言っていいのかな」 「言っていいさ。よかったら、うな重をおかわり[#「おかわり」に傍点]してくれてもいい」 「二十三ですよ」 「ん?」 「わたしの歳です」 「だから?」 「からかうような言い方は、やめて下さい」 「そんなつもりでは、なかった」 「どっちでもいいですけど、社長のこと、雑誌に書くんですか」 「俺はスキャンダルねたは扱わない。とりあえず、信用してくれ」  また湯呑を取りあげ、丸い癖のない目で俺の顔を見つめたまま、鼻の穴をふくらませて、梅村美希がしゅっと茶をすすった。 「わたし、この前、見ちゃったんです」 「見たのは、分かってる」 「三山《みつやま》スポーツの社長と、園岡社長が一緒のところをです」 「あの、大手スポーツ用品メーカーの?」 「腕を組んでいました」 「それは、園岡さんも独身だし……」 「三山社長は結婚しています」 「そういうことも、たまには、ある」 「歳は六十五です」 「六十五?」 「たまには、そういうこともあるんですか」 「そういうことも、その、なくはないだろうな」 「夜中の一時に、赤坂のクラブから腕を組んで出てきたんです」 「商談か、なにか、やっていたのかもしれない」 「夜中の一時ですよ。もちろん三山スポーツはうちにアスレチック機械やユニフォームを入れてますけど、そこの社長とうちの社長が、どうして腕を組んでお酒を飲むんですか。コスモス・ハウスを吸収するのは三山スポーツだって、そういう噂です」 「あの三山スポーツが、コスモス・ハウスを、か」 「うちを系列の子会社にして、三山スポーツのイメージ宣伝に使うそうです。園岡社長はコスモス・ハウスを売り渡して、三山スポーツのイベント担当重役に納まる予定でした」 「噂で、な」 「噂で、です。でもあんなところを見たら、誰だって本当だと思うじゃないですか」 「その噂は、菜保子さんも知っているんだろうか」 「会社の人はみんな知っていますよ。三山スポーツの子会社になったほうがいいと言う人もいます」 「コスモス・ハウスも、内部では揉《も》めていたということか……」  噂が事実かどうか、調べれば分かることだが、しかし園岡えりは、あの社長室で、コスモス・ハウスを満足のいくところまで充実させたい、と俺に言ったのではなかったか。そのためにテレビコマーシャルの企画を進めていると、真剣な表情で、たしかにそう言ったはずだ。俺が会った園岡えりのすべてが演技だったとすれば、今度の事件は、最初からストーリーを組み立て直さなくてはならない。色仕掛けで大手企業の社長に取り入り、亭主の遺産を売り渡してでも自分がその企業の重役に納まろうと画策するほどの女が、妹の男関係ぐらいのことであれほど動揺するはずはない。三日前の時点で、園岡えりは、いったい俺にどんな役割りを振り分けようとしていたのか。なにか不愉快な渦《うず》が見えてきたような気はするが、それでもまだ園岡えりの笑顔しか思い浮かべられない俺の頭は、自慢ではないが、よっぽど女に甘くできているのだろう。 「柚木さん」 「うん?」 「どうか、しました?」 「いや。君がなぜ夜中の一時に赤坂にいたのか、それを訊きたいと思っていただけだ」 「アルバイトですよ」 「ふーん」 「週に二日、スナックでアルバイトをしています」 「いろいろ、大変なんだな」 「芝居はお金がかかるんです。でもわたし、汚いお金は稼いでいません。自分がしたことの、正当な代価だけを受け取りたいんです」 「難しく考えることも、ないんじゃないか」 「いやなんです。他人《ひと》を騙したり、楽をしてお金を稼いだりすること」 「俺も、一応は、賛成だ」 「さっき言ったこと、本当ですか」 「さっき言った、なんだ?」 「うな重のおかわり[#「おかわり」に傍点]のこと」 「ああ、もちろん、本当だ」 「それじゃわたし、遠慮なくおかわり[#「おかわり」に傍点]をさせてもらいます。朝からなにも食べていなかったんです」  梅村美希が勝手にうなずいて、店のおばさんに追加を注文し、俺はなんとも不思議な気分で、ビールを飲み干して煙草に火をつけた。三年間ずっと吉島冴子に惚れていて、三日前は園岡えりに一目惚れをして、そして今は、いろんなアルバイトをやっているこの梅村美希の顔を、ずいぶん奇麗な女の子だなと感心しながら眺めている。ナンバー10の葉子が、俺みたいな男は女の罰が当たって地獄に落ちればいい、と言っていたが、もしかしたら本当に地獄に落ちるかもしれないと、本気で、俺は少し心配した。病気だから仕方がないのだと言い訳をしても、地獄では誰も俺の理屈なんか聞いてくれないだろう。  しかし、どうでもいいが、東京って街はどうしてこういい女が多いのか。いい女が多い、この東京自体が、俺にとっては地獄なのかも知れない。 [#ここから5字下げ] 4 [#ここで字下げ終わり]  濡れたアスファルトを、タイアに雨を引きずらせてクルマが往《ゆ》き来する。朝から降ったりやんだりの天気だったが、車道も脇道も家々の屋根も、飽きるほど濡れていて、自転車通学らしい女子高生もみんな紺色の雨合羽《あまがっぱ》を着込んでいる。ところどころに稲刈りの済んだ田んぼが茶色く顔を覗かせ、農家の裏手には葉の落ちた柿の木が、鮮やかな実をつけて黒く聳《そび》えている。天気が良ければ両神《りょうかみ》や三峰《みつみね》の山も見えるらしいが、今はただ灰色の風景がクルマの前に低く広がっているだけだった。  俺は西武秩父の駅前でレンタカーを借り、地図を頼りに、国道一四〇号線を長瀞《ながとろ》方面に走っていた。『親鼻《おやはな》』という場所から左に入っていけば、そのあたりに園岡菜保子の父親が住んでいるという皆野町があるはずだった。  地図のとおり、『おやはな』の道路標識が見え始め、左に曲がる側道《そばみち》があって、俺はその山道を皆野町方向に入っていった。そのころには雨はやんでいたが、道の両側に被さる杉の林はたっぷり湿っていて、空気には枯れ草と青い木の匂いが濃く混ざっていた。東京からたった二時間で、人間はこんな山奥にまで来ることができるのだ。  途中の自動車修理工場で場所を聞き、そこから十分で、俺は園岡の家に到着した。 [#ここから5字下げ] * [#ここで字下げ終わり]  どこに通じるのか、地図にも載っていない山道の途中にある農家造りの家は、トタン屋根が雨で黒く濡れていて、土を露出させた広い前庭には小型の耕運機がビニールを被せて止めてあった。大宮や浦和が埼玉なら、ここも埼玉で、日航機が墜落した御巣鷹《おすたか》山からも低い山を一つ挟んでいるだけだった。  庭に面した雨戸も、入り口のガラス戸もすべて開け放してあって、俺はそのガラス戸の中に向かって大きく声をかけてみた。暗い土間におりてきたのは、平べったい顔をした、人間の燻製《くんせい》のような小さい年寄りだった。いくらか腰が曲がっていて、歳も分かりづらかったが、この女が園岡えりの言っていた後妻さんらしかった。 「東京から来た柚木といって、週刊誌の記者なんだけどね、旦那さんに訊きたいことがあるんだ」と、一つ愛想笑いをつくってやってから、名刺を渡して、俺が言った。「旦那さん、いるかな」 「とうちゃんは東京に行ってるけんど」と、名刺と俺の顔を見くらべながら、困ったように目を細めて、女が答えた。「週刊誌の記者ってことは、例の、あれかね?」 「例の、あれ[#「あれ」に傍点]なんだ。旦那さんは、いつ帰ってくるんだろうね」 「いつになるかさあ。あと四、五日は向こうにいるかさあ」 「あと四、五日……東京っていうのは、娘さんのところ?」 「なんだか知らないけんど、いろいろ用があるんだってさあ」 「俺、園岡さんの葬式に出たけど、旦那さんは見かけなかったな」 「そりゃそうだいね。とうちゃんがあんな女の葬式に出るわきゃないがね」 「あんな女、ねえ」 「娘が心配で東京に行っただけさ。あんな女、死んでくれてとうちゃんもせいせいしただろうよ」 「わざわざ東京から来たんだ。あんな[#「あんな」に傍点]女のこと、おばさん、聞かせてくれないか」  女が顔の皺をのんびりと動かし、また名刺に目を細めて、曲がった腰を伸ばしながら、ふんと一つ鼻を鳴らした。 「昨夜《ゆうべ》とうちゃんから電話があって、犯人ってのが捕まったそうだいねえ。あたしゃどうでもいいけど、せっかく東京から来たんだ、庭のほうにでも回りないね。からっ茶[#「からっ茶」に傍点]でもいれてやるよ」  女がうなずきながら土間の奥に入っていき、俺は言われたとおり庭に回って、雨戸を開け放してある板の間のまん中に、庭に面して腰をおろした。霧がかかって風景はよく見えなかったが、植林された杉山が敷地のかなり近くまで迫っているようだった。  女が家の中から盆にのせた湯呑を持ってきて、俺のうしろに正座をして座り、背中を丸めて、小さい目でちらっと灰色の空を覗きあげた。 「天気がはっきりしないやねえ。これじゃコンニャク玉も腐っちまうかさあ」 「お宅、かなりの山持ちなんだってね」と、湯呑を取りあげ、一口すすってから、煙草に火をつけて、俺が言った。「東京の近くに、こんな場所があるとは思わなかった」 「ただ田舎《いなか》ってだけさ。若い衆はみんな東京に出ちまうし、山なんぞいくらあっても仕方ないがね」 「さっきの話じゃ、旦那さんと殺されたえりさん、仲が良くなかったらしいね」 「東京もんの考えることは、あたしらには分からないさあ。調子だけはいいけど、やることはまるで泥棒猫だがね。とうちゃんが怒るんだって無理ないと思うよ」 「彼女が生きているとき、なにかあったわけだ?」 「そりゃあさ、死んだ徳雄《とくお》さんの嫁御《よめご》だから、悪くなんか言いたかないさ。だけど正直、あそこまで欲が深い女だとは思わなかったよ。徳雄さんが死んだとたん、一切がっさい財産を一人占めにしちまった。あたしも五十年がとこ生きてるけんど、そんな話、聞いたこともなかったがね」  話の筋からすると、『徳雄さん』というのが園岡えりの死んだ亭主で、信じたくはなかったが、このおばさんの歳が『五十』ということらしかった。それにしても園岡えりを泥棒猫とまで呼ばなくてはならない、どんな事情があるのか。 「財産の一切がっさいというのは、現金とか、家とか?」 「保険も会社も、そっくりさ。いくら嫁だからって、そういう理屈はないと思わないかい? 東京のマンションだって会社を作るときの金だって、とうちゃんが山を売って出したんだよ。ぜんぶ返せとは言わないけんど、徳雄さんが死んだら、家《うち》のほうにそれなりの挨拶は入れるもんだよ。それをあの女、当たり前のような顔で一人占めしちまったがね。東京ってところは、恐ろしいやいねえ」  感情的な問題はともかく、死んだ亭主の財産を園岡えりが一人で引き継ぐことは、民法上はなにも問題はない。夫婦の間に子供がいなければ、財産のすべては配偶者のものになる。姉弟や親の相続権は、法律上はあくまでも二次的なものなのだ。もちろんそういう理屈を、このおばさんに言ってみても意味はないだろうが。 「マンションや保険金はともかく、会社のことは、どうなのかな。株式会社になっているんだろう?」 「難しいことは、あたしには分からないがねえ」 「徳雄さんが会社をつくるとき、おばさんや旦那さんも、役員になっているはずだけどな」 「そうなんだってねえ。お盆に菜保子が帰ってきたとき、そんなようなことを言ってたっけが。とうちゃんやあたしが、あのコスモポリスとかってとこの重役なんだってさあ。書類の上ではそういうことになってるらしいね」 「書類の上で、な。そのことについて、えりさんが生きているとき、なにか言ってきたことはなかった?」 「どうだかねえ。半年ぐらい前、ドライブの途中だとか言って、あの女が突然顔をみせたことがあったっけか。それで会社の経営権がどうとか言い出して、とうちゃんが怒っちまってさあ。そりゃそうだいねえ。徳雄さんが死んでからこっち、うんでもすんでもなかったやつを、突然やって来て金のことを言うんだから。とうちゃんがそんとき追い返して、それからはもう、電話もかけてこなかったねえ」 「菜保子さんも、会社の役員になってるんだろうかね」 「あの女が死んだ記事を書こうってのに、会社のことなんか関係ないだろうがね」 「いろんな角度から事件を分析しているわけさ。人間が一人殺されるってのは、大変なことなんだよ」 「そんなもんかねえ。犯人も捕まったっていうし、それでいいんじゃないかさあ」 「おばさんは、この家の後妻さんなんだってね」 「へええ、誰に聞いたんね」 「こっちも商売さ。この家に来てから、どれぐらいになるわけ?」 「はあもう、二十年がとこたつかねえ。死んだせっちゃんとは従姉妹《いとこ》だったんさ。せっちゃんが死んで、菜保子がまだ赤子《あか》でさあ。とうちゃんも一人じゃ無理だんべえからって、親戚口で嫁に来たんさ」 「そのときは、徳雄さんはもう東京に出ていたんだ」 「あの男も若いころはさあ、ずいぶんいい加減なことをやってたがねえ。とうちゃんも苦労したんだよ。山も半分以上は徳雄さんのために売っちまって、今度の会社でやっと落ち着いたと思ったら、ぽっくりいっちまった。運の悪い男だったがね」 「徳雄さんが会社をつくった、ちょうど五年前、菜保子さんの事件が起きたことになるのかな」 「あんた……」 「いや、たまたま、そういう話が耳に入ってね。今度捕まった野田という男が、五年前の事件にも関係していたらしいんだ。因縁《いんねん》ってやつなのかねえ」 「その話はしたくないね。みんな終わったことだ。そんなことを言うんなら、あたしはもうこれ以上喋らないよ。あんときは不良同士が喧嘩して、たまたま一人が死んだだけのことさ。園岡の家にも菜保子にも、なんの関係もないことなんだ」 「関係がないのは分かってるよ。記事にするつもりもないしね。ただ、因縁ってやつがあるのかなと、そう思っただけさ」  ぬるくなった茶を飲み干し、霧が巻いている遠くの山に目をやってから、黄色い菊が花を付けている庭の隅に視線を戻して、俺が言った。 「菜保子さんに、縁談があるんだってね」 「どこで調べてきたのか知らないけんど、週刊誌の記者ってのも、忙しい商売だいねえ」 「相手は化粧品会社の、社長の息子なんだって?」 「菜保子っくらい器量《きりょう》が良けりゃ、そういう話だってあるがね」 「彼女は、のり気なのかな」 「どうだかねえ。お盆にもその話が出たけんど、菜保子は仕事をつづけると言ってたねえ。家に納まるような子じゃないからさあ」 「今度のことで会社にも責任が出てきたし、な。菜保子さんが、社長になるんだろう?」 「当然だがね。徳雄さんが死んだときだって、順序からいけば会社は菜保子のものだったんだ。ただ歳が若いからって、あの女に丸め込まれてさ。気がついたときにはいいようにされていた。結局あの女、欲をかきすぎたんだよ」 「菜保子さんがお盆に帰ってきたとき、会社を売るような話は出なかった?」 「売るって、どういうことかさあ」 「経営権の問題だよ。他の会社の、子会社にするようなこと」 「そんな話があるわけないがね。誰か、そんなことを言ってるん?」 「噂がね、ちょっとさ」 「あの女ならともかく、菜保子が徳雄さんの会社を人手に渡すわきゃあないよ。徳雄さんは自分の子供みたいに菜保子を可愛がって、菜保子もよくなついていたっけが。はあ菜保子は、中学んときから一人で徳雄さん家《ち》に遊びにいってた。兄妹《きょうだい》で仲がいいのは当たり前だけんど、歳が離れてたせいか、あの兄妹は特別に仲が良かったがね」 「死んだえりさんが、もし会社を人手に渡すようなことを言い出したら、菜保子さんは怒ったろうね」 「そりゃあそうさ。そんなことを言うやつがいたら……あんた、なにが言いたいんかね」 「いや。噂があるから、聞いてみただけだよ。もちろん今度の事件とは、なにも関係ないけどさ」  おばさんがポットを引きずり、急須《きゅうす》に湯を足そうとするのを断って、立ちあがりながら、俺は新しい煙草に火をつけた。今度の事件には最初から役者が一人欠けていたのだ。案《あん》の定《じょう》それは菜保子の兄の徳雄だったが、たとえ徳雄が生きていても、園岡えりに幸せな人生が待っていたとは、どうしても思えなかった。 「だけど、おばさん、静かで、本当にいいところだな」と、向かいの山と、菊の咲いている広い庭を改めて見回して、雨の匂いを胸の奥深く吸い込みながら、俺が言った。「俺も歳を取ったら、こんな田舎でのんびり暮らしたいもんだ」 「東京もんはみんなそう言うさ。だけどはあ、二、三日も暮らしたら逃げて帰るのが落ちだがね。徳雄さんも菜保子も、帰ってきても二日とはいなかったよ」 「そんな、もんかな」 「若い衆にとっちゃ、面白いことなんぞなにもないところさね」 「面白いことなんか、東京にもどこにも、なにもないんだけどね。東京にあるのは、なにか面白いことがあるような錯覚だけさ」  雨が降りだし、おばさんが庭に向かって舌打ちをやり、礼を言って、俺は軒下からカローラが止まっている門の前まで大股《おおまた》に走っていった。「こんな田舎でのんびり暮らしたい」と言った自分の台詞が、本心だったろうかと、走りながらふと俺は考えた。気持ちのある部分では本心に違いないが、しかし俺は、どうせ女に惚れたり振られたりしながら、死ぬまで東京で暮らすのだろう。 [#ここから5字下げ] * [#ここで字下げ終わり]  国道一四〇号線を秩父市方向に戻り、そのまま市街地を通り抜けると、風景はまた一気に深い山村になる。市中とその周辺だけ都会を真似た雰囲気をつくっているが、市街地から十分クルマを走らせると、景色はもう絵にかいたような田舎になってしまう。こんな風景の中から菜保子のような女が生まれてきたのも不思議だが、考えてみれば、東京という街はその不思議の寄せ集めなのだ。俺の目が自然にきょろきょろしてしまうのは、言い訳ではないが、けっして俺の責任ではない。  荒川《あらかわ》村を通り越して大滝村に入り、郵便局で黒沢研次の家を訊いて、俺は塩沢《しおざわ》という集落にある黒沢研次の家までクルマを走らせた。郵便局の職員は、黒沢研次はまだ塩沢の実家にいて、長男と一緒に農業をやっていると教えてくれた。黒沢研次も菜保子と同じ二十三のはずだが、今でも村にとどまっているのは、それなりに思想があるのか、都会に出る気力がないのか、どちらかなのだろう。  塩沢の黒沢研次の家は、菜保子の実家よりはだいぶ小さい農家造りで、研次は近くの山で杉の下枝刈りをしているということだった。俺は家にいた三十ぐらいの色の黒い女に場所を訊き、塩沢の集落から、また十分ほど山道にクルマを走らせた。雨はあがっていたが道のぬかるみは壮絶で、借りてきた白いカローラは泥がはねてラリーカーのようだった。クルマを返す前に、ガソリンを入れながら洗車ぐらいしてやらなくてはなるまい。  教えられたとおり、十分ほど走ると山道に小型のライトバンが止まっていて、俺はそのうしろにクルマを止め、杉山に入る脇道の付近に人の気配を探してみた。近くでなにかの物音は聞こえていたが、それが風の音なのか、雨が木の枝を伝わる音なのかは判断できなかった。殺されて、こんなところに埋められたら、警察犬を使っても発見は無理だろう。  俺はクルマに戻ってクラクションを鳴らし、少し間をおいて、また五度ほど、しつこくクラクションを鳴らしてみた。煙草に火をつけて待っていると、まっ暗な杉山の中に音がして、雨合羽を着た若い男が大鎌《おおがま》を肩に姿を現した。男は文字が入った鍔《つば》つきの帽子を被っていたが、頭にはパンチパーマをかけているようだった。 「お宅に寄ったら、ここだと言われてね。君、黒沢研次くんだろう」  うなずきながら近寄ってきて、首にかけたタオルで顔の汗を拭きながら、黒沢研次が、帽子の庇《ひさし》をぐいと上に突きあげた。歳のわりには脂《あぶら》のうすい顔で、腫《は》れぼったい小さい目にも精気のようなものは感じられなかった。大鎌は担いでいるが、それを俺に向かって振り回すほど凶暴な性格でもなさそうだ。 「柚木といって、東京で週刊誌の記者をしている。五年前の事件で、君に訊きたいことがあるんだ」  黒沢研次が腫れぼったい目を見開き、口を曲げて、風邪《かぜ》でもひいているように、なん度か小さい咳をした。 「なんでえ、俺はまた、警察の人かと思ったよ」 「警察に厄介《やっかい》になるようなこと、しているのか」 「してねえよ。してねえから、ちょっとびびった[#「びびった」に傍点]んさ」 「見たところ、真面目に働いているようじゃないか」 「田舎じゃこれぐれえしか仕事はねえからよ。東京に出たって、トラックの運転手かパチンコ屋の店員ぐれえなもんだろうけど」 「地道に働いていれば、そのうちなにか、いいこともあるさ」 「どうだかな。いい目[#「いい目」に傍点]見るやつは、生まれつきいい目見るように出来てるんじゃねえの。俺なんか一生、杉の下枝でも刈って終わるんさ。人生なんてそんなもんよ」  この黒沢研次に、人生についての講義なんかしてもらいたくなかったが、相手が鎌を持っているうちは、無理やり怒らせる必要もない。 「五年前のことなんだけどな、ちょっと、詳しく聞きたいんだ」 「あんなこと今ごろ聞いて、週刊誌にでも書くわけかい?」 「内容によりけりさ。園岡菜保子が、今はやりの、エステティック・クラブの社長になるんだ。二十三の若さで、それもあれだけの美人だしな、書き方によっては面白い記事になる」 「菜保子が、エスタレック・クラブの……か」  黒沢研次が、鎌を肩からおろして道端の切り株に座り込み、雨合羽の下から煙草を取り出して、赤い使い捨てのライターで火をつけた。 「いい目を見るやつは、どこまでもいい目を見るんだよなあ。あいつは、子供んときからずっといい目を見ていやがった」  俺もどこかに腰をおろしたかったが、切り株も道端の草も濡れていて、仕方なく、立ったまま、また新しい煙草に火をつけた。 「君たちと事件を起こして、当時の彼氏も刑務所に入ったわけだから、いい目だけを見ていたわけでもないだろう」 「どうだかよ。彼氏ったって、野田のほうが惚れてただけで、菜保子自身はなんとも思っていなかったんべえよ」 「それでも実家には居られなくなったじゃないか」 「近所がうるさかっただけよ。あいつ、自分が恰好悪いのが嫌だったんさ。東京に逃げ出せて、本当は嬉しかったんじゃねえの? 俺なんか逃げたくたって、どこにも逃げられやしなかった」 「野田は、当時、一方的に彼女に惚れていたのか」 「そりゃそうよ。菜保子に惚れてたのは野田だけじゃねえぜ。菜保子は中学んときから、可愛くて有名だったからな。それに毎週東京に出ていて、着るもんでも持つもんでも、この辺のやつらとはまるで違っていた。ああいう女、俺だったら最初から相手にしねえのによ。よせばいいのに、よっちゃんも菜保子に惚れちまって、それで、あんなことになっちまったんさ」  よっちゃん、というのが矢島義光のことで、あんなこと、というのがその死であることは、今更俺が念を押す必要もない。女の子が一人、この風土に似合わないほどの姿形だったというだけで、いったいなん人の男が人生を狂わせたのだろう。 「事件の起こりは、矢島が彼女を強姦したことだったよな」と、濡れた草の上に煙草を捨てて、足元の枯れ草を靴の先で払いながら、俺が言った。 「強姦なんかしちゃいねえよ。そりゃあよ、よっちゃんはやるつもりだったかも知れねえけど、出来なかったんさ。皆野の山で菜保子の帰りを待ち伏せしてて、藪《やぶ》ん中に連れ込んだけど、いざとなったらよっちゃんのなに[#「なに」に傍点]が立たねえの。本気で惚れてると、そんなもんかも知れねえけどよ。俺、最初っからよすべえって言ってたけど、よっちゃんがさ、やっちまえば女は喋らねえって、そう言うからよ。俺だったらあんな女、最初っから相手にしねえのにな」 「結局、それで、喋られたわけか」 「野田に言い付けやがったんさ。野田のやつ、ボクシングが出来るからって幅きかせてやがって、よっちゃんも前から面白くなかったんだ。こっちは二人だし、チェーンもブラック・ジャックも用意していたから負けるはずはねえと思ったんだけど、野田も本気だったんだいなあ。やってみたらまるで敵《かな》わねえの。俺も顎の骨を折られたけど、よっちゃんなんか無茶くちゃ殴られて、気がついたときには死んじまってたんさ」 「野田も、彼女には、本気で惚れていたということかな」 「そうだんべなあ。あいつ、頑に血がのぼりやすい野郎で、よっちゃんが倒れたあとでも無茶くちゃ殴りやがるの。俺なんか怖くてよう、菜保子にやめさせろって言ったんだけど、菜保子のやつ、平気な顔して見ていやがるの」 「彼女は、その場所に、いたのか」 「そうよ。杉の木に寄りかかって、にやにや笑いながら見ていやがった。俺、なんか、恐ろしくてよう。よっちゃんが死んだからって言うわけでもねえけど、もう、これから先はおとなしく生きべえって思ったいなあ」  暗い杉山の中で、三人の高校生が乱闘している光景と、それをうす笑いを浮かべて見物している菜保子の顔が目に浮かんで、俺自身、背中に寒気がする思いだった。女が残酷な生き物であることは承知しているはずだったが、その場面に菜保子の整った顔を当て嵌《は》めると、胃の中が苦《にが》くなるほど嫌な気分だった。そして、当然、その顔を園岡えりに入れかえても、女が残酷な生き物である理屈は変わらない。 「おとなしく生きるのは、正解かも知れないな」と、枯れ葉を蹴飛ばし、靴底にこびりついた土を草でこすり取って、二、三歩クルマのほうに歩きながら、俺が言った。「静かに、おとなしく、狭い世界でじっと生きるのが、人生の極意かも知れない」 「だけどよう、やっぱし、不公平じゃねえのかなあ。こんな山ん中で、なんで俺が一人杉の枝を刈らなくちゃいけねえのかなあ」 「さあ、な。人間は、誰でも自分に合った生き方を選ぶもんさ。そういうふうに出来てるんじゃないか」  自分で言ってみたが、それが答えになっていないことぐらい、俺自身が一番よく分かっていた。こんな山の中で、なぜ一人で杉の枝を刈らなくてはいけないのか。東京のあんな狭いマンションで、女房子供と別れて、なぜ一人で暮らさなくてはならないのか、それが分かれば、俺は明日からでも新興宗教を始めてやる。 「柚木さんっていったっけ」 「うん?」 「あの人、会うことあるのかい」 「あの人って」 「ほれ、菜保子の義理の姉さんとかいう、あのとんでもねえ奇麗な人」 「園岡……えり?」 「そう、そんな名前だった」 「園岡えりを、知っているのか」 「半年っくれえ前、あんたと同じで、俺に五年前のことを詳しく訊いていったよ」 「あ……」 「奇麗な人だったいなあ。東京には、ああいう女がたくさん居るんだんべなあ。言ってもしょうがねえけどよ、世の中、やっぱし不公平だいなあ」 [#ここから5字下げ] 5 [#ここで字下げ終わり]  西武秩父駅五時四十分発のぼり特急池袋行きレッドアロー号の発車までには、まだ二十分の時間がある。  俺は駅の売店で千円のテレホンカードを買い、公衆電話まで歩いて、思い出したくもない東京のその番号を苦い思いでプッシュした。三年もたてば忘れてよさそうなものだが、悲しい習性で、俺の指は警視庁刑事部捜査一課の直通番号をしっかりと覚えていた。  電話に出た山川六助は、気配が伝わってくるほど大袈裟《おおげさ》に声をひそめたが、山川にしても立場上、俺からの電話が嬉しいはずはないのだ。 「野田浩司が自白をしたか、それが訊きたいんですがね」 「まあ、ねえ、全面解決したわけじゃないんで、なんとも申しあげられませんなあ」 「吐いたかどうかだけ、聞かせてくれませんか。山川さんに迷惑はかけませんよ」 「柚木さんのことだから、あたしが喋らなくてもどこかで調べるんでしょうが……一応、自白は時間の問題、ということにしておきましょうかね」 「要するに、全面自供はしていないということですね」 「刑務所の飯を食ってきた奴ですから、素人のように簡単には吐きませんよ。ただ事件当夜、笹塚のマンションに行ったことだけは認めました。目撃者がいますからね、やっこさんもしら[#「しら」に傍点]を切り通すわけにはいかなかった」 「マンションには、なにをしに行ったと自供してるんです?」 「菜保子との交際を邪魔するなと、被害者に掛け合いに行ったそうです」 「結果は?」 「被害者も納得したんで、そのまま帰ってきたと言っておりますな。ですがねえ、そのまま帰ってきて、人間が一人死ぬはずはないでしょう。奴の犯行に決まっていますよ。柚木さん、奴が五年前に起こした傷害致死事件の凶器、ご存知でしたか」 「いや、そこまでは……」 「それがなんとね、拳《こぶし》なんですよ。奴はボクシングの心得があったんですなあ。ボクサーの拳ってのは立派な凶器です。今度の事件で凶器が特定できなかった理由も、それで説明がつきますよ。最初の日にあたしが感じた疑問も謎が解けました。覚えておいででしょう? 犯人はなぜ鈍器を上から振りおろさなかったのか。ねえ、ボクサーなら当然、腕を水平に振って相手の顎を殴りつけるじゃないですか。当夜犯行時刻に現場付近での目撃者もおりますし、指紋も出たし犯行の手口も割れているし、それに菜保子との交際を断られてかっと[#「かっと」に傍点]きたという、明確な動機もあります。たとえ自供が取れなくても、送検すれば有罪は間ちがいないところでしょう」 「本当に、そういうことなら、いいんですがね」 「ほうう。柚木さん、なにか……」 「いや。優秀な弁護士なら、物証の弱い点を突いてくるでしょう」 「だからこっちも、出来れば自白を取ろうと頑張っておるわけですよ。柚木さんはお嫌いだったが、自白尊重主義は長い間の習慣なんです」 「野田と菜保子は、現時点では、どういう付き合いだと言っていました?」 「被害者が反対しているからという理由で、菜保子は深い関係になりたがらなかったそうです。そのことは園岡菜保子からも事情聴取してありますよ。つまり野田は、園岡えりさえいなければ菜保子と結婚できると、そんなふうに思ったんでしょうなあ。殺人《ころし》なんて単純なことをする奴の頭は、もともとが単純にできているもんですよ」 「山川さん」 「なんです?」 「大きなお世話ですが、野田浩司がなぜあの日を選んで笹塚のマンションに出かけたのか、もう一度洗ってみたらいかがでしょうね」 「なぜ、あの日を?」 「定年を前に、さよならホームランが打てるかも知れませんよ」 「柚木さん……」 「怖いですよねえ」 「はあ?」 「女のことです」 「女?」 「こっちの話ですがね。そんな怖い女に、なぜ男は惚れてしまうのか。男っていうのはつくづく、不幸な生き物だということです」 「あの、ちょっと……」 「野田には菜保子からの差し入れだと言って、天丼でも食わせてやって下さい。それで奴の不幸が、変わるわけでもないでしょうが」 [#ここから5字下げ] * [#ここで字下げ終わり]  雨にうんざりしているのか、今度の事件にうんざりしているのか、それとも俺自身の人生にうんざりしているのか、自分でもよく分からない。背中が突っ張って膝に力が入らないほど疲れていたが、それでも俺は歩道の雨を蹴飛ばし、引き受けた仕事を終わらせるために原宿からの道を歩いてきた。クルマのヘッドライトが雨の粒を金色に光らせ、ショーウインドーから流れ出す照明が歩道の雨を贅沢《ぜいたく》な色に染めあげている。秩父の山に降る雨も、都会の喧噪《けんそう》に降る雨も、しかし雨は、やはり俺の気持ちを滅入《めい》らせる。  コスモス・ハウスの前まで来て、五階のフロアに明りがついていることを確かめ、受付けは通らずに、俺はエレベータを使って社長室にあがっていった。四日前、ドアの前で俺を迎えてくれたのは、ワインカラーのテーラードスーツを着た園岡えりだった。園岡えりははにかんだような顔で微笑みかけ、黒目の大きい澄んだ目で、じっと俺の顔を見つめたものだ。あのときの真剣な目に、いくらかでも誠意を見た気がするのは、まだ俺が園岡えりに未練を感じている証拠なのだろう。  ドアをノックし、中から返事があって、俺はへんに懐かしいその社長室に、複雑な気分で入っていった。園岡えりの代わりにデスクの向こうから立ちあがったのは、パステルピンクのパンツスーツを着た園岡菜保子だった。葬式ではアップにしていた髪は肩までのワンレングスに戻っていて、化粧でも変えたのか、青白かった頬には若さを感じさせる健康的な赤味が差していた。こんな女の子が、あの秩父の山の中で、どんな価値観を育てながら大人になってきたのか。 「電話で訊いたら、君が会社に出ていると言うんで、寄ってみたんだ」と、部屋のまん中に立ったまま、ソファには座らず、菜保子がデスクの前から歩いてくるのを待って、俺が言った。 「四日前、君とはこの部屋で一度会っている」  仕草で俺にソファをすすめ、自分でも腰をおろして、菜保子が頬にかかった髪を大きく手でふり払った。 「義姉《あね》の葬儀にも来ていただきましたわ。昨日《きのう》は、ありがとうございました」 「昨日葬儀が終わったばかりで、もう仕事をしているわけか」 「目を通さなくてはいけない書類がたくさん有りますの。それに、仕事をしていたほうが気が紛れるんです」 「故人の家族は、よくそう言うもんだ。仕事をしているついでに、俺の仕事にも付き合ってもらえるかな」 「柚木さんの、お仕事?」 「えりさんからある調査を依頼された。俺が兄さんの友達でないことは、もう知っているよな」  菜保子が、返事をせずに腕を組み、ソファに背中をあずけて、切れ長の光の強い目でまっすぐ俺の顔を見つめてきた。俺の名前が簡単に口から出たのは、菜保子の頭の中でその名前が馴染《なじ》んでいるということだろう。園岡えりは、俺の名刺を自宅に持ち帰っている。家にまで持って帰って、俺の名刺なんかを誰に見せたというのだ。 「君は、えりさんから、俺のことをどう聞いている?」 「あのとき、ただ兄のお友達だと紹介されただけですけど」 「元警官で、私立探偵のアルバイトをやっているとは聞かなかったか」 「いえ……」 「まあ、いいさ。君がえりさんの仕事を引き継ぐらしいから、調査報告も君にしてやろうと思う。君にとっては、迷惑かもしれないがな」  レインコートに、煙草を探し、取り出して火をつけてから、煙を窓のほうに吐いて、俺が言った。 「えりさん殺しの容疑で、野田浩司が逮捕されたことは知っているはずだ。四日前、俺はえりさんから、君と野田の関係を調べるように依頼された。野田に前科があることを心配して、できれば君と野田を別れさせてほしいということだった。純粋に、えりさんが君のことを心配しているんだと、あのときは、俺もそう思った」  園岡菜保子が腕を組んだまま、声も出さず、表情も変えなかったので、煙草をつぶして、俺がつづけた。 「ただ、どうもな、あとから考えると、おかしいことが幾つかある。四日前、俺がこの部屋にいるとき、えりさんはわざわざ君をここに呼びつけた。調査の必要上君の顔を確認させるためだろうと思っていたが、そうではなかった。あれは、君に、俺の存在を知らせることが目的だった。元警官で、雑誌に記事も書いている男が本格的に君の過去を調査し始めたと、そのことを君に見せつけようとしたんだ。えりさんが何故そんなことをしたのかも、俺に言わせたいか」  やはり腕を組んだまま、眉を少し寄せただけで、相変わらず菜保子は黙って俺の膝のあたりを眺めつづけていた。 「えりさんは、この会社を三山スポーツに売って、自分は本社のイベント担当重役におさまるつもりだった。君の兄さんにも、この会社にもこの仕事にも愛着はなかった。しかし会社を三山スポーツに売るには、経営権の問題がある。調べてはいないが、えりさんには代表権がなかったんじゃないか? 代表権はたぶん、君の親父さんが持っていると思う。そこでえりさんは、君に圧力をかけた。君の持ち株も手放させ、代表権も手に入れようとした。ちょうど野田浩司が刑務所から出てきて、君に接触を始めた。君だって五年前の君とは違う。スキャンダルになれば、秩父から逃げ出したようには逃げられない。えりさんは俺なんかに調査させるまでもなく、五年前のことは自分で調べていた。ただそれでも、君は会社を手放すことに同意しなかった。えりさんと違って、君にはこの会社に愛着があった。スキャンダルも起こしたくないし、会社も手放したくない。えりさんが俺を雇って、いよいよ本気だということが分かって、君は決心した。五年前と同じように、野田浩司を使うことにしたんだ」  菜保子が咳払いをして立ちあがり、俺の顔を横目で見ながら、デスクに歩いてその向こう側に腰をおろした。窓ガラスに雨がぶつかってかすかな音を響かせていたが、白いブラインドが雨も夜景も、きっぱりと遮《さえぎ》っていた。 「もしかしたら、君にとっては予定の行動だったのかも知れない」と、うんざりしながら、それでも仕方なく、また煙草に火をつけて、俺が言った。「俺なんかが現れなくても、君は、いつかはやるつもりだった。だからこそ野田を掌《てのひら》の中で遊ばせていた。えりさんも野田を利用して、君も野田を利用した。どっちが勝ってどっちが負けたのか、なんとも、俺には判断はしきれない」 「おっしゃることが、なにもかも、まるで分からないわ」と、デスクから椅子を引き、パンツスーツの脚を組んで、顎を少しだけ突き出しながら、菜保子が言った。「柚木さん、もしかして、わたしが野田に義姉《あね》を殺させたと言っているの?」 「その可能性は、じゅうぶんある。五年前、君は野田浩司に矢島義光を殺させている。もっともあのときは、結果的に矢島が死んでしまっただけだけどな」 「あのときだって、わたしは罪にならなかったわ。今度のことも、義姉がわたしたちを邪魔していると野田には言ったけど、それがなにかの罪になるの? 野田が勝手に、自分でやってしまっただけでしょう?」 「えりさんを殺せなんて、もちろん、君は野田には言ってない。そんなことを言えば、野田が捕まったとき殺人|教唆《きょうさ》で同罪になってしまう」 「分かってるじゃないの。警察でも野田が犯人だと言ってるし、間接的にいくらかわたしに責任があったとしても、事件そのものには関係ないでしょう? だからって、週刊誌には書かれたくないけど」 「俺が書かなくても日本中の週刊誌が放っておかないさ。一つの殺人《ころし》に、君たちほどの美人が二人も絡む事件は、めったにあるものじゃない」 「その言い方、気にいらないわ」 「俺はわざと、君を怒らせているんだよ。自分が一人で怒っていても、馬鹿みたいだからな」 「あなたの喋り方は気にいらないけど、つづけてわたしのために働くと言うのなら、それなりの報酬は払いますわ。義姉が約束していたよりも多い金額を、ね」 「俺の能力を見込んでか。それとも、口止めで?」 「口止めをする必要なんか、どこにもないでしょう? わたしは週刊誌に、面白《おもしろ》可笑《おか》しく書かれたくないだけよ。だからコスモス・ハウスを守るためのビジネスとして、柚木さんが調べた五年前のことは、正当な値段で引き取ります」 「五年前の事件はただで売ってもいいけど、四日前の事件は、売るわけにはいかないな」 「そんなこと、まだ言っているの?」 「いくらでも言うさ。俺も最初は、君に唆《そそのか》された野田が単独でやった犯行だと思った。殺人教唆の証拠が見つからない場合は、君が無罪になるのも仕方ないと思った。でも、なにかが、どうもおかしいんだよな。いろんなことの辻褄《つじつま》が、やっぱり合わない。いくら傷害致死でも、野田は五年間刑務所に入っていた人間だ。仮釈放中でもあるし、今度殺人で有罪になれば二十年以上の実刑は間ちがいない。そんな奴が、殺人現場に指紋なんか残していくだろうか」 「野田は、でも、気が立つと前後のみさかいがなくなる性格なのよ。今度のことだって、計画的にやったわけではないでしょう?」 「それが、計画的だったんだ。だから辻褄が合わない」 「辻褄が合わないと思っているのは、柚木さん一人だけだわ」 「残念ながら、そうでもないんだ。野田がなぜあの日を選んで笹塚のマンションに出かけたか、そろそろ、警察も疑い始めている」  園岡菜保子が、椅子を軋らせて立ちあがり、デスクを半分回って、その場所に腕を組んで立ち止まった。 「それが、どうしたっていうのよ。頭に血がのぼれば、野田はいつだって人ぐらい殴るわよ。特別にあの日を選んで義姉を殴ったわけではないわ」 「特別に、あの日を選んだんだ。その理由は、あの日に限ってえりさんの母親が実家に帰っていたからさ。野田は、あの日えりさんが一人でマンションに居ることを、誰に聞いたんだろうな。えりさんは、母親のことなんか誰に話したんだろう。えりさんがそんなことまで話す人間は、君一人しかいないじゃないか」 「でも、それは……」 「君はあの日、えりさんが一人でマンションに居ることを知っていた。君にはもう、あの日しかなかった。俺が調べ回る前に決着をつけなくてはならなかった。野田に一言言えば、奴がマンションに怒鳴り込むことは分かっていた。そして君は、予定どおりに行動した」 「そんなこと、なんの証拠にもならないわ。あの日たしかに、野田には義姉が一人で居ることは教えたけど、殺せなんて一言も言ってない」 「君は野田に、えりさんを殺せとは言わなかった。野田もえりさんを殺さなかった。えりさんを殺したのは、君だ」 「馬鹿なこと……妄想で、勝手なことを言わないでよ。あの女に一目惚れして、頭がおかしくなったんじゃない?」 「君は自分から兄さんを奪ったえりさんに、潜在的な殺意を抱きつづけていた」 「そんな……」 「えりさんの殺し方には、はっきりとした悪意がある。ただ殺すだけなら、肋骨を折るほど殴らなくてもよかったはずだ。野田がマンションから出て行くのを待って、入れちがいに君が部屋に入った」 「そんな作り話、誰も信じたりしないわ」 「野田はプロの殺し屋じゃないんだ。スリや空き巣狙いはなん度でも同じ手口を使うが、素人が人を殺すとき、二度も同じ手口は使わないさ。この事件の関係者で、野田以外にあの殺し方を知っていたのは、君だけだ」 「妄想よ。ただのいいがかりよ。証拠を見せてよ」 「証拠はない。俺には証拠を集める義務もない。ただ野田があの日の経緯《いきさつ》を警察で喋れば、連中は必死になって証拠を集め始める。君にはアリバイもないはずだし、動機の大きさも野田とは比べものにならない。二、三日うちには、逮捕状を持って警察がやって来る。今のうちに自首するか、警察から逃げ切る手段を考えるか、そんなこと、君が好きなほうを選べばいいんだ」 「わたしは、悪いことなんか、なにもしていないわ」 「俺も、出来れば、そうあってほしいと思う」 「警察になんか……」 「なあ、ブラック・ジャック、どこに始末したんだ?」 「ブラック・ジャック?」 「君がえりさんを殴った凶器さ。布や革の袋に小石を詰めて振り回すやつ。最近は見かけないから忘れていたけど、田舎の不良はまだあんなものを使うんだよな。五年間、君は、しっかりブラック・ジャックの使い方を覚えていたということだ」  立ちあがって、レインコートの襟《えり》を直し、切れ長の目を見開いて俺の顔を見つめている菜保子に、俺は、軽く会釈をした。赤味が差していたはずの頬も白くなって、暑くもないのに、菜保子の額と首筋にはうすく汗が滲んでいた。 「親父さん、早く秩父に帰したほうがいいな」と、ドアに向かって歩きながら、頭の中で深呼吸をして、ふり返らずに、俺が言った。「また山を一つ売ることになるだろうが、世の中には最初から山なんか持っていない人間のほうが、ずっと多い」  俺がドアを開け、外に出て、うしろ手にそのドアを閉めるまで、菜保子は社長室のデスクの横に立ったまま、最後まで一度も口は開かなかった。なにを考えていたのか知らないが、どっちみち、俺に女の考えていることなんか分かるはずはない。廊下をエレベータのほうに歩きながら、不思議に、俺はもう園岡えりに未練は感じなかった。 [#ここから5字下げ] * [#ここで字下げ終わり]  事件に片がついたことの記念でもないだろうが、雨が、音をたてて降り始めている。雨の音は一階のロビーまで聞こえていて、帰りそびれた客がソファに散らばって外の雨を眺めている。俺もレインコートは着ていたが、傘はなく、原宿の駅まで歩けば頭からずぶ濡れになる。 「柚木さん……」  自動ドアの内側に立ったまま、迷っていた俺に声をかけたのは、ジーンズのミニスカートに黄色い雨靴を履《は》いた、梅村美希だった。昨日の喪服姿にもへんな色気はあったが、ショートボブと長い脚には、やはり、ミニスカートのほうが似合っている。 「よく会いますねえ。まだ事件の取材ですか」 「取材が終わったことを、確かめに来ただけさ。君は、仕事は終わったのか」 「終わりましたよ。それに今、事務局に辞表も出してきました。退職金は貰えないけど、人間は毎日を気持ちよく生きなくてはいけないんです。明日からまたアルバイト探しです」 「君、歳は、いくつだと言ったっけな」 「二十三です。どうしてですか」 「女の数だけ女はいるもんだと、確認しなおしただけだ」 「へんですねえ。なんか、疲れていません?」 「歳のせいか、雨が躰にこたえるのかも知れないな」 「柚木さん、いくつですか」 「三十八」 「あ……」 「なんだ?」 「昨日は鰻、ご馳走さまでした」 「君が有名になったら、色紙《しきし》にサインでもして送ってくれ」 「三十八ですか」 「うん?」 「大人なんですね」 「好きで歳をとったわけじゃない」 「でも、大人のわりに不良っぽいところ、なかなかいいですよ」 「そう……か」 「傘、ないみたいですね」 「ハンフリー・ボガートは、傘なんか差さなかった」 「フットボール選手ですか」 「うん?」 「なんとかボガート」 「アメリカの俳優だけど、君の世代には関係ないんだろうな」  梅村美希が片足で反応板にとび乗り、自動ドアを開けて、赤い傘を開きながら表の庇の中に歩き出した。俺もつられて外には出てみたが、雨は粒が見えるほど強く、傘を差さずに歩くには相当な覚悟が必要だった。 「来て下さいよ」と、庇の前まで出て、躰ごとふり返り、広げた傘を大袈裟に揺すりながら、梅村美希が言った。 「どこへ、だ?」 「傘の中です。決まってるじゃないですか」 「ああ、決まって……な」  近づいていった俺に傘を渡し、肩で俺の躰を雨の中に押出しながら、腕を、梅村美希が呆気《あっけ》なく俺の腕に絡ませてきた。 「へええ。このコート、ダンヒルじゃないですか」 「金めのものは、これしか持ってない」 「時計はスォッチですよね」 「君、なあ、相手の男を、いつもそうやって値踏みするのか」 「今回は特別です。わたし、三十八の男の人と付き合うの、初めてですから」 「俺も二十三の女の子と、一本の傘で歩くのは初めてだ」 「傘なんて、普段でも差さないと言ったじゃないですか」 「あれは、一種の、レトリックだ」 「さっきは、わたしも、レトリックしました」 「ふーん」 「わたしだって役者志望です。ハンフリー・ボガートぐらい知ってますよ。柚木さんが恰好つけるから、からかっただけです」  クルマが歩道側に幅寄せして止まり、それを避けるように、梅村美希が俺の腕を引っ張って、なんのつもりでか、軽くスキップを踏んだ。 「雨って、けっこういいですよね」 「好みの問題、だな」 「埃も排気ガスも洗い流してくれて、雨の日だけは、東京も空気が美味《おい》しいです。柚木さん、夕飯食べましたか」 「まだ、食ってない」 「近くに美味しいステーキ屋があるんです。そんなに高くないです。お金がなかったら、ワリカンでもいいです」 「俺の原稿料を聞いたら、高くて、君は腰を抜かすさ」 「本当ですか」 「ワインだっておごれると思う」 「わたし、今朝起きたときから、今日はいいことがあるような気がしていました。こういうふうに雨が降る日って、きっといいことがあるんです」  梅村美希が、またスキップを踏み、躰が傘から食《は》み出して、俺の頭に信じられないほどの雨が降りかかった。もうすぐ十一月で、昼間はあんな霧雨さえ冷たく思えたのに、今降っているこの強い雨を心地よく感じるのは、いったい、どういうことだろう。  梅村美希の黄色い雨靴が、俺の目の中で、気持ちよさそうに歩道の雨を踏んでいく。園岡えりや、吉島冴子や園岡菜保子の顔が、俺の頭から溶けるように雨の中に流れ出していく。流れ出していく女たちに罪の意識を感じながら、それでも俺は、鮮やかに動く黄色い雨靴に、年甲斐もなく胸のときめきを覚える。  女の罰が当たって、やはり俺は、地獄に落ちるのだろうか。 [#改丁] [#ここから4字下げ] 風の憂鬱 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] [#ここから5字下げ] 1 [#ここで字下げ終わり] 「待たせましたかな。店の場所がわからなくて、ずいぶん探してしまった」  その男は五十ぐらいの歳《とし》で、黒ずんだ皮膚《ひふ》に短く刈った髪をポマードかなにかで撫《な》でつけ、うすい胸と尖《とが》った肩を茶色いツイードのジャケットで息苦しく包み込んでいた。明日がクリスマスイブだという夜に、額《ひたい》と鼻の頭に脂《あぶら》っぽい汗を滲《にじ》ませている。 「銀座の『ナンバー10』で、二、三度お目にかかったことがある。覚えておいででしょう?」  男の押しつけがましい喋《しゃべ》り方に、肝臓のあたりが不愉快な反応をしたが、子供じゃあるまいし、俺《おれ》は黙ってうなずいた。男が会ったことがあると言うなら、会ったことがあるのだろうし、俺に恨みを持っていて懐《ふところ》に刃物でも忍ばせているというなら、それは、そうであるのかも知れない。俺はもうかなり酔っ払っていたし、議論も喧嘩《けんか》も世間話も、人生をかけてまでやってみたい気分ではなかった。あと一時間で時計の針は一時間ぶん進み、その瞬間から世間はクリスマスイブになり、それからまた二十四時間で日本中がクリスマスになる。クリスマスになったからってもちろん、サンタクロースが俺に幸せを運んでくるわけでもないだろうが。 「本当に、ずいぶん探したんですわ」と、男がハンカチで額の汗を拭《ふ》き、俺の顔を確認するように、一つうむとうなずいた。「わたし、普段は荒木町《あらきちょう》に縁《えん》がないもんでしてね。三十分ほど近くをうろうろしてしまった」  それが約束の時間に一時間も遅れたことの言い訳なのだろうが、男の口からはまだ、俺が納得するような謝罪の言葉は吐《は》き出されていない。だいたい俺が今この店で飲んでいる理由は、それまでいた新宿の飲み屋に『ナンバー10』の葉子《ようこ》から電話が入って、「今夜中にどうしても柚木《ゆずき》さんに会いたいという男がいる」と言ってきたからにすぎない。自分のマンションに近いこの店を指定し、それからもう一時間以上、飲みたくもない水割りを一人で喉《のど》に流し込みつづけている。 「折り入って、柚木さんにお願いしたいことがありましてね」と、カウンターの他の客を憚《はばか》るように、ちらっと店の中を見回して、男が言った。「つまり、柚木さんを見込んで、どうしても引き受けてもらいたい仕事があるわけですよ」  俺のところに仕事を持ってくる人間なんて、どうせヤクザか人殺しかその関係者に決まっているわけで、そういう人間もそういう仕事も、常識があればだいたいは世間を憚るものだ。  俺は目で、店のすみのボックス席を男に示し、自分のグラスを取りあげてカウンターからそこに場所を移動させた。男も俺の向かいの席に座り、女主人が新しいグラスを置いていくまで、ハンカチを使いながら黙って店の様子を眺《なが》め回していた。 「柚木さんが以前警視庁にお勤めだったことは、ナンバー10のママから伺《うかが》いましたよ」  ハンカチを上着のポケットにしまい、かわりに名刺を取り出して、俺に渡しながら、男が秘密っぽい目つきでにやっと頬を歪めた。  男から渡された名刺には『スイング・ジャパン、社長、久保田《くぼた》輝彦《てるひこ》』と書いてあった。俺は『スイング・ジャパン』にも『久保田輝彦』にも記憶はなかったが、飲み屋のカウンターで二、三度となり合わせただけの人間の名前なんて、覚えていろというほうが無理な話だ。ただ記憶ということで言えば、俺にもこの久保田輝彦という男の顔には、たしかに見覚えはあった。 「実はわたし、いわゆる芸能プロというのをやってまして……沢井《さわい》英美《えみ》という女優は、ご存知ですかな」  俺がいくら芸能界の事情に暗くても、もちろん沢井英美の名前は知っている。十年ほど前アイドル歌手としてデビューして、今は映画やテレビドラマで主役級の活躍をしている女優だ。アイドルのころは若いくせに目に妙な翳《かげ》があって、その翳がほかのアイドルたちとは違う独特の存在感をつくり出していた。恥《は》ずかしながら、そのころ、俺も一枚だけ沢井英美のLPを買ってしまった過去がある。 「お分かりでしょうが、うちの事務所で沢井英美のプロモートをやってまして、お願いというのはその沢井英美のことなんですわ」 「クリスマスのプレゼントにしては、ちょっと高価すぎるな」 「は?」 「新作映画でわたしに沢井英美の相手役をやれとか、ね」  まさか、というように鼻を曲げて笑い、また店の中を眺め回して、久保田輝彦が深く前に身をのり出した。 「お話する前に、このことはぜったい他言はされないと約束していただきたい」 「沢井英美が飼っている猫が、犬の子供でも産みましたか」 「わたしは冗談《じょうだん》を聞きに伺ったんじゃないんですよ」 「お互い様です。あなたもわたしが他人の秘密を漏らす人間だと思うなら、最初から仕事の話はしないほうがいい」 「いや、そういう意味ではなくて……」 「どうしても今夜中に会いたいと言ってきたのは、あなたのほうだ。わたしは逆に、クリスマスイブの前の日は仕事をする気分にはならないんです」 「いや、その、なにしろ、事が事なもんで、わたしも気が動転しておるんです。失礼はいくらでもお詫《わ》びします。目をつぶって、どうかこの仕事を引き受けていただきたい」  俺にしたって無理に相手の神経を逆撫《さかな》でしたいとは思わなかったが、しかしなんとしても、この男の第一印象が気にくわない。それとも芸能界という言葉に、俺の人生観が無自覚な拒否反応でも起こしてしまったのだろうか。 「くどいようですが……」と、また身をのり出し、口を俺にだけ見える角度に向けて、久保田輝彦が言った。「とにかくこのことは、ぜったい口外されんように。実は、沢井英美が、消えてしまいよったんですわ」  一瞬、俺にはその言葉の意味が理解できなかったが、理解できたところで好意的な反応をしたわけではなかった。俺の専門はあくまでも『人殺し』であって、奇術や魔法にはなんの縁もない。 「要するに久保田さんは、沢井英美が失踪《しっそう》したと言ってるわけですか」 「最初からそう言っておるんです」 「しかし、それがわたしの仕事と、どういう関係があるんです?」 「ですから柚木さんは以前刑事をやっていらして、今でも個人的に、その、私立探偵のようなことをやっておられると……」 「ナンバー10の葉子がどう言ったか知らないが、わたしの専門は刑事事件です。家出人|捜《さが》しに興味はありません」 「ただの家出人捜しとは違うんです。いなくなったのは、あの沢井英美なんです」 「あの沢井英美でもこの中森明菜でも、わたしにとっては同じことです。家出人なら警察に捜索願いを出せばいい」  もちろん俺にだって、久保田輝彦が警察に捜索願いを出したくない事情は、分からなくはない。捜索願いを出せばマスコミに勘づかれないはずはないし、公開捜査になれば日本中の交番に顔写真入りの手配書が回される。結果がどうであれ、沢井英美の女優人生に終止符が打たれる可能性を、ある程度は覚悟しなくてはなるまい。  それにこれは、俺自身が一番よく知っていることだが、家出人の捜索願いは年間でも九万件以上警察に提出される。警察がやることはコンピュータのリストに家出人の名前を登録するだけで、捜査らしいことはなにもおこなわない。たとえ公開捜査になって『触れ書き』が交番に回ったとしても、そんなものは交番に届いたとたん、一直線でごみ箱行きになる。誘拐かその他の事件がらみでない限り、家出人に関しては、警察は完璧に無視を決め込む。 「それにしても、やはりわたしの出番ではなさそうだ」と、水割りのグラスを空《あ》け、そのグラスに自分で氷とウイスキーを足しながら、俺が言った。「家出人捜しは興信所が専門です。あっちはそういう仕事に馴れている」 「興信所を使えれば最初から苦労はないんですわ」 「向こうはプロですよ。大きいところを使えば組織的にも動いてくれる」 「それが困るんです。係《かか》わる人間が増えれば増えるほど、このことが外部に洩《も》れる可能性も大きいわけです。わたしはなんとしても内密に処理をしたい。沢井英美の女優生命もかかっておると同時に、スイング・ジャパンの存亡もかかっておるんです。彼女も会社もわたしが自分の手で育て上げた。その両方が今わたしの手から消えようとしている。わたしはなんとしても沢井英美を連れ戻したい、それも外部には、一切《いっさい》知られずに」  たかが女一人いなくなったぐらいで、まるでこの世の終わりみたいな言い種《ぐさ》だが、考えてみれば確かに沢井英美は普通の女ではない。有名な女優であるということはそれに相応しい金も動かしているわけで、その額は俺の腰が抜けるぐらいの大金なのだろう。 「お礼はじゅうぶん差しあげます」と、狭い額に皺《しわ》を寄せ、また俺のほうに深く身を屈《かが》めて、久保田輝彦が言った。「金にいとめは付けない。小切手でも現金でもおっしゃる通りの額をお支払いします」  金の話が出た瞬間、久保田に対する敵意が萎《な》えてしまうのも情けないが、懐《ふところ》が淋《さび》しいという現実は人間に対する好き嫌いだけでは、どうにも処理しきれない。それにこの正月には娘をスキーに連れていく約束になっていて、軍資金としてもまとまった金がほしいことも事実だ。別れて暮している娘を年に一度スキーに連れていくというのに、俺としてもあまりしみったれた真似《まね》はしたくない。 「興信所では、浮気の調査に一日十万円も取るそうです。料金はその倍お払いします」 「わたしは、引き受けるとは言ってない」 「いえ、是非《ぜひ》とも引き受けて下さい。お願いできるのは柚木さんしかおらんのです。わたしと沢井英美を助けると思って、どうしても引き受けていただきたい」  俺がほしいのは金だけで、久保田輝彦の感謝の言葉など聞きたくもないが、それにしてもどこか、沢井英美の失踪には引っかかるものがある。久保田輝彦の雰囲気にも気に食わないものがあるし、それに本当は俺自身、沢井英美のLPを買ってしまった過去に義理を感じている部分も、なくはなかった。 「とりあえず、それでは、具体的な状況を聞きしましょうか」と、煙草に火をつけ、煙を長くテーブルの上に吐いて、俺が言った。「あなたの話を聞いていると、誘拐とかなにかの事件に巻き込まれたとか、そういうことではなさそうだ」 「そういうことではないんです。いや、たぶん、そういうことではないはずです」 「いわゆる失踪というやつですか」 「専門的にどう言うのか、ちょっと、わたしには分からんのです。とにかく消えてしまいよったんです。一昨日《おととい》の昼マネージャーが彼女をマンションへ迎えに行ってみると、もうおらんかったと言うんです。一昨日は来春に出す新曲の打ち合わせをやることになっておりましてね、そっちのほうは急病ということでごまかしたんですが、そんなごまかしがいつまでもつづけられるもんじゃない。幸いこの業界も暮と正月は暇になりますから、急病と冬休みということでしばらくはなんとかなりますが、それもせいぜい松の内までです。その間に沢井英美に出てきてもらわんと、スイング・ジャパンは空中分解ですわ」 「マンションの部屋は、どんな様子でした?」 「わたしは直接は見ておらんのです。一昨日から穴を開けた仕事のやり繰りで飛び回っておる次第で……ただマネージャーに言わせると、衣類や化粧道具や小物や、そういった身の回りの物がスーツケースと一緒に消えておるらしいんですわ。部屋も散らかってはいなかったと言うことです」 「つまり誘拐されたわけでも、誰かに無理やり連れ出されたわけでもない。理由はともかく、沢井英美は自分の意思でどこかに姿をくらました」 「そういうことに、なるんでしょうなあ」 「久保田さんにも沢井英美が姿を消した心当たりは、お有りになる?」 「いやいや……」  久保田輝彦がグラスの氷を強く鳴らし、それをくっと呷《あお》って、肩で一つ長いため息をついた。 「そういうことですと、まったく心当たりはないんですわ。ご承知のように映画やテレビの仕事も順調ですし、レコードも年に二枚は出しております。それにコンサートやディナーショーも……」 「私生活はどうです? 特に男関係は」 「それは……」と、ネクタイの結び目の上で、喉仏《のどぼとけ》をごろんと動かし、グラスを宙に浮かせたまま、久保田輝彦が言った。「本来ならそういうことは口が裂けても言えんのですが、柚木さんを信用して申しあげると、まあ、おることはおったようです」 「名前は?」 「清野《きよの》忠之《ただゆき》。極東テレビのプロデューサーですわ」 「そのプロデューサーは、当然妻子持ちなわけですね」 「そういうことです。ですが柚木さん、この二人の関係はいわゆる大人の関係というやつで、仕事に支障をきたすとか人生を棒にふるとか、そういったことはなかったはずですよ。最近はわたし、沢井英美の私生活には干渉しないようにしておったんですが、この世界では珍しく身持ちは堅い女でした。男が理由で今度の問題を起こしたとは考えられんのです」 「以前にも二、一二日、ふらっと姿を消したようなことは?」 「とんでもない。沢井英美がそういう女だったら、わたしだってこれほど慌《あわ》てたりはいたしません」 「あなた個人との関係はどうです? 彼女が独立したがっていたとか、ギャラに不満を持っていたとか」 「なんというか、その、この世界ではギャラの問題は一種のつきものなんですわ。無かったとは言いません。ですが沢井英美とわたしは彼女がデビューする前からの関係でして、最後はいつもお互いが納得する数字で合意していましたよ。それにもともとうちは沢井英美の個人プロダクションのようなものですから、彼女がわざわざ独立しなくてはならん理由はなかったはずです」  久保田の話を聞いていると、沢井英美は仕事も順調で男関係にもトラブルというほどのものはなく、金銭面や事務所との関係でも特別な問題は抱えていなかったということになる。誘拐や拉致《らち》事件ならともかく、そんな人間が前触れもなく突然姿を消すはずはないわけで、要するに久保田がどこかで嘘をついているか、あるいは久保田の知らない部分で沢井英美が人生になんらかの問題を抱えていたか、どちらかということだろう。 「沢井英美の家族は、どういうことになっています?」 「白金《しろがね》のマンションで一人暮らしでした」 「両親とか、兄弟は?」 「父親は甲府で料理屋だか食堂だかをやっておるらしいんですが、詳しいことは知らんのです。母親は彼女が子供のときに死んでいます。兄貴というのもおったんですが、これももう死んでいます。家庭環境という意味では恵まれておらん子でしたね」 「沢井英美がマンションから姿を消したあと、彼女が行きそうな場所はぜんぶ当たってみたんですね」 「そりゃもちろん、この二日間必死で捜し回りました。それでいよいよこいつはただ事ではないと思ったわけです。さっきも言ったように、調査料にいとめは付けません。是非とも沢井英美を捜し出して、今度のことがどういう意味なのか、それをはっきりさせていただきたい」  俺の頭に、スキースーツを着てゲレンデを滑《すべ》り降りてくる娘の生意気な顔が浮かんで、仕方なく俺は決心した。それに芸能界ではないが、俺がやっている雑誌の仕事も暮と正月は冬休みに入るわけで、俺自身が暇ではないかと言えば、それはもうぜったいに暇なのだ。 「沢井英美の失踪を知っている人間は、どれぐらいいます?」と、また自分で勝手に水割りをつくり、それを口に運びながら、俺が言った。 「わたしと事務所の人間のなん人かと、それと極東テレビの清野さんだけですわ」 「甲府の父親というのは?」 「問い合わせてはみましたが、それは他の口実をつくってです。なんせ……」 「沢井英美というのは、本名ですか」 「本名は沢井|英美《ひでみ》なんです。デビューのとき読み方だけ英美《えみ》に変えたんですわ。特別に理由があったわけじゃないですがね」 「人捜しはわたしの専門ではないし、結果がどうなるかは分からないが、とりあえずやってみることにしましょうか」 「ありがたい。いや、是非ともそう願いたい。わたしはスケジュールの調整やテレビ局への言い訳回りで手が離せんのです。柚木さんにはマネージャーの若宮《わかみや》を全面的に協力させます」 「とにかく、明日会社のほうに伺います。それから、料金のことですが……」  俺はまた、水割りを一口あおり、新しい煙草に火をつけて、その煙をふーっと久保田輝彦の腹に吹きつけた。 「一週間で百万ということにして下さい。前金で経費は込み。仕事が早く片づいても沢井英美が自分から姿を現わしても、貰《もら》った金は返さない。請求書も領収書も出せない。一週間動いて結果が出なかったときは、それはまたそのときに考える……そういうことで、よろしいでしょうか?」 [#ここから5字下げ] 2 [#ここで字下げ終わり]  毎日毎日ちゃんと朝がやってくるというのも、考えてみれば妙なものだ。目が覚《さ》めて便所に行き、コーヒーをいれてテレビをつけ、ソファにひっくり返ってその日最初の煙草に火をつける。テレビではモーニングショーだかアフタヌーンショーだかをやっていて、なんとかという女優に子供が生まれたとか、なんとかというコメディアンが原宿にキャラクターグッズの店を開いたとか、人類にとって有益とも思えない話題を延々と流しつづけている。  最初の煙草を吸い終わり、コーヒーカップが空になるころになって、そういえば今日も自分が生きていたことを仕方なく思い出す。そして生きていることに対する義務のようなものもあるのかと思い出しはするが、だからって今更《いまさら》神様や日本政府に感謝する気にもならない。こういう日がだらだらとつづいていき、そのうち養老院のベッドで、起きあがれもせず、便所へも行けず、煙草も吸えずコーヒーも飲めずという朝がやってくるに決まっている。そのことに覚悟ができているわけでもなく、その日のためになにか準備をしているわけでもない。それでも朝というのは、妙なものだ。俺みたいな人間にも人生を一変させるような面白いことが起こるかもしれないと、二日酔いの頭に、ふと思わせたりする。  俺が革《かわ》のハーフコートを引っかけて四谷のマンションを出たのは、普通の人間はけして朝とは呼ばない、十一時をだいぶ過ぎた時間だった。 [#ここから5字下げ] * [#ここで字下げ終わり]  芸能プロの事務所が青山や六本木に多い理由は、たんにそこが新大久保《しんおおくぼ》や赤羽《あかばね》であったりしてはいけないという、それだけのことなのだろう。芸能人でだれか新大久保に住んでいるという話は聞かないし、その会社が赤羽にあるという話も、やはり聞いたことはない。スイング・ジャパンが入っている新南青山ビルも、ご多分にもれず青山墓地の森が近くに見える外苑《がいえん》西通りの坂の途中にあった。事務所はビルの四階にあって、しかも四階のフロア全体が『スイング・ジャパン』になっていた。沢井英美クラスのタレントを一人抱えていれば、これぐらいの場所にこれぐらいの事務所は構えられるということなのか。  特別に受付けらしいものはなかったが、俺はエレベータの出入り口に近い部屋のドアを開け、雑然と机が並んでいるだだっ広いフロアの中に入って、近くの机に座っているジーパンを穿《は》いた若い男に声をかけた。 「沢井英美さんのことでおたくの社長に仕事を頼まれている。マネージャーの若宮さんにお目にかかりたい」  口の中でなにか返事をしたようだったが、俺が聞き返す前に席を立ち、細いジーパンの腰をくねらすように男が部屋の中にある別のドアに歩いていった。そのドアを開け、中に声をかけてから、戻ってきて、男が今度は黙って俺をそのドアに促《うなが》した。男が最初から最後まで無表情だった理由は、沢井英美の件で緊張していたからではなく、最近はやりの、『たんにそういう性格』ということらしかった。  ドアに『社長室』とプレートがついた部屋の中にいたのは、昨夜《ゆうべ》荒木町の飲み屋で会った久保田輝彦ではなく、髪を短く耳のうしろに掻きあげて四角い黒縁の眼鏡《めがね》をかけた、若い女だった。女はたいして広くはない殺風景な部屋の革張りのソファに座って、直前まで膝《ひざ》の上のファッション雑誌を読んでいたらしかった。 「若宮さんという、沢井英美のマネージャーに会うことになっている」と、コートを肩に引っかけたまま、ソファの前まで歩いて、俺が言った。 「わたしが若宮です」と、無表情に立ちあがり、テーブル越しに名刺を差し出しながら、女が言った。「柚木さんですね。社長に言われて、朝からお待ちしていました」  女が渡してくれた名刺には、『スイング・ジャパン企画部、若宮|由布子《ゆふこ》』と書いてあって、沢井英美のマネージャーが男である必要はどこにもない事実を、俺はあらためて認識した。沢井英美のマネージャーは男である必要もなく、社会に恨みを持っているような中年女である必要も、たしかに、どこにもない。しかしこの若宮由布子と沢井英美が二人並んでいたとき、知らない人間はどうやって女優とマネージャーを区別するのだろう。 「社長からは私立探偵の方《かた》が見えると聞いていました」と、元のソファに座って、俺が渡したフリーライターの名刺と俺の顔を、眉をしかめて見比べながら、若宮由布子が言った。 「アルバイトでたまにはそういうこともやっている。君も、アルバイトじゃないんだろう?」 「は?」 「君はアルバイトで、沢井英美のマネージャーをしているのかってことさ」  若宮由布子が眼鏡の奥の黒目がちな目を、固く笑わせ、口を尖らせて軽く息をついた。 「柚木さんのほうは、どうなんですか」 「俺の、なに?」 「どちらがアルバイトなんです? 私立探偵ですか。それともフリーライター?」 「両方ともアルバイトみたいなもんさ。人生そのものがアルバイトだと思うこともある」  俺は脱いだコートのポケットから煙草を取り出し、火をつけてから、正面を向いて背筋を伸ばしている若宮由布子の顔を、改めて観察しなおした。黒縁の眼鏡が似合っているかいないかは別にして、そんなものではごまかせないほど、とんでもなく整った顔立ちをしている。歳は二十五を過ぎているとは思えないが、子供っぽい表情の中に倣慢な落ち着きも、感じられないことはない。マネージャーより自分がタレントになったほうが似合いそうな娘だが、若宮由布子にも若宮由布子の、なにか難しい人生観とかいうやつがあるのだろう。 「俺が久保田さんに頼まれた仕事は、君、知っているよな」と、腕を伸ばして、ガラスの灰皿に煙草の灰を落としながら、俺が言った。 「そのためにわたしは朝から待っていたんです。お金も用意してあります」 「久保田さんに話を聞いたかぎりでは、彼女は自分から姿を消したとしか思えない。君に、心当たりはないか」 「ありません」 「誰かに強請《ゆす》られていたとか、脅迫されていたとか、しつこく付きまとっていた男がいたとか、それともなにかの事件に巻き込まれていたとか……」 「わたしがどうして、そんなことを知らなくてはいけないんです?」 「女優とマネージャーは、公私ともに一心同体の部分があるだろう」 「女優やマネージャーによりけりです。わたしと英美さんは、仕事と私生活を区別していました」 「君、どれぐらい沢井英美のマネージャーをやっている?」 「三年です」 「三年も一緒に仕事をしていて、沢井英美の私生活を、まったく知らないのか」 「まったく知らないことはありませんけど、でも親友だったわけではありません。わたしの仕事はあくまでも『女優・沢井英美』のコーディネイトです」 「自分の担当している女優が失踪した割りには、困っているふうにも見えない」 「それは……」  若宮由布子が肩の位置をずらし、髪を耳のうしろに掻きあげて、形のいい鼻の穴を強情そうにふくらませた。 「それは、わたし、もともと感情が表《おもて》に出にくい、そういう性格なんです」  そのとき、ドアにノックの音がして、髪をワンレングスにした厚化粧の女が、ドアの隙間《すきま》から無愛想に顔を覗《のぞ》かせた。 「由布子さん、あおいちゃんから電話が入っているけど……」  若宮由布子が、その女にうなずいてから一つ咳払《せきばら》いをし、立ちあがりながら、俺のほうに明かるく眼鏡を光らせた。 「すぐ戻りますけど、コーヒーでも飲みますか」 「いや」 「紅茶かなにか」 「なにも要《い》らない。君さえよければすぐに出かけたい」 「すぐに?」 「沢井英美のマンションにさ」  口の中で「ああ」とだけ言い、会釈《えしゃく》をして、あとは怒ったような顔で若宮由布子が外のフロアに出ていった。たしかに奇麗《きれい》な娘だが、表情にも身のこなしにも、残念なほど色気がない。躰《からだ》のまん中に一本固い棒でも入っている感じで、奇麗な中学生がそのまま十年歳をとればこんな女になるのかも知れないが、そのくせちゃんと頭は良さそうだから、それはもう、ただそういう性格だというだけのことなのだろう。もちろん俺がそんなことを残念に思ったところで、俺にも若宮由布子にも、完璧に意味はなかったが。 [#ここから5字下げ] * [#ここで字下げ終わり]  若宮由布子が新南青山ビルの前に回してきたクルマは、ブルーグレーのメタリック塗装をしたBMWだった。俺は女房や子供と別れて暮らすようになってから、自分ではクルマを運転しなくなったが、自分で乗り回していたころでさえせいぜい国産の一五〇〇�だった。基本的にクルマなんか動けばいいという思想はあったが、そういう思想はだいたいのところ、ただの負け惜しみでしかない。  若宮由布子はその左ハンドルのクルマを無表情に操《あやつ》り、外苑西通りをまっすぐ南にくだって、聖心女子大学が近くにある住宅街の中のマンションまで俺を連れていった。途中で喋ったことは、このBMWは会社のクルマを沢井英美が仕事用に使っているもので、沢井英美自身はクルマを運転しないことと、沢井英美が姿を消した二十一日以降、マンションには若宮由布子が泊まり込んでいることの、たった二つだけだった。若宮由布子自身は三軒茶屋《さんげんぢゃや》のワンルームマンションに一人暮らしだという。  玄関前の駐車場にクルマを置き、管理人室の前を通って俺たちがあがっていった部屋は、エレベータから一番遠い位置にドアがある五階の角部屋だった。玄関もエレベータも内廊下も、俺の四谷のマンションとは比べるのも恥ずかしいぐらい立派な造りだった。人生のあり方自体が違うわけで、そんなものは、比べてみても最初から意味はない。  若宮由布子が自分の持っていた鍵でドアを開け、中に入ってみると、そこは広い沓脱《くつぬぎ》になっていて、沓脱から鉤《かぎ》型につづいている廊下の先が十畳ほどの洋間になっていた。脚の短い大型のソファや、マホガニーのサイドボードが置かれていたから、この部屋が居間という部分なのだろう。部屋の西側の壁には木のドアが一つあって、その向こうが寝室になっているらしかった。俺の部屋とはすべてが比べものにならないが、だからってすべてのものが気絶するほど豪華なわけではなかった。逆にあれだけの女優にしては質素すぎるかと思われるほど、家具にも調度にも大した金はかかっていないようだった。 「どうも、実感がわかないな」と、しばらく部屋の中を見回してから、ぼんやりした顔で壁に寄りかかっている若宮由布子に、俺が言った。「あの沢井英美の部屋に立っているのに、脚も震えないし冷や汗も出てこない。告白すると、俺、昔一枚だけ彼女のレコードを買ったことがあるんだ」  若宮由布子が口の中でくすっと笑い、壁から背中を離して、首をかしげながら台所の向こうに歩いていった。 「コーヒーをいれます。どうぞ、ソファに座っていて下さい」  俺は言われるまま、コートを脱いでビロード張りのソファに座り込み、することもないので、仕方なくまた煙草に火をつけた。前のテーブルにはガラスの灰皿が置かれていたが、吸殻《すいがら》は一本もたまっていなかった。 「君は今、この部屋に泊まり込んでいるんだよな」と、灰皿を手前に引き寄せながら、台所の若宮由布子に、俺が訊《き》いた。  ふり返って、眼鏡ごと、若宮由布子がこっくんとうなずいた。 「もし沢井英美が君のマンションに連絡を入れたら、どうするんだ?」 「留守番電話がセットしてあります」 「しかしここに泊まっていたら、留守番電話は聞けないだろう?」 「メッセージは外から聞けます。留守番電話はそういうふうにできています」  ふと思い出し、煙草の火を消して、俺はサイドボードの横の電話台まで歩いていった。 「沢井英美がいなくなったのは、三日前の昼だよな」 「それはわたしがこのマンションに来た時間です。英美さんがいつからいなくなったのかは知りません」 「君が最後に沢井英美に会ったのは?」 「前の日の、夜の十時ごろです。わたしが英美さんをマンションまで送ってきました」 「そのとき君は、部屋に入ったのか」 「玄関の前で英美さんをクルマからおろして、わたしはそのまま帰りました」 「つまり沢井英美が姿を消したのは、二十日《はつか》の夜十時から二十一日の昼までの、十四時間の間というわけだ」  俺はそこで、一度台所のほうをふり返ってみたが、若宮由布子の姿は見えず、かわりに台所からはコーヒーの香ばしい匂いが流れ出していた。  電話機は、思ったとおり、いろんなボタンが前面にごちゃごちゃ並んだ、いわゆる多機能電話というやつだった。俺の使っている電話とは色も形も違っていたが、使用表示を見たかぎり機能自体に変わりはなさそうだった。留守番機能のボタンにはそれが現在セットされていることを示す、小さい赤いランプがついていた。  俺は留守番機能を解除し、テープを十秒ほど巻き戻して、そこに吹き込まれている一番最近の伝言に耳を澄《す》ませてみた。入っていたのは若い女の声で、自分の名前を言ってから、暇なときにまた自分から電話をするというだけの内容だった。俺はそれからテープをスタートの位置にまで巻き戻し、再生ボタンを押して元のソファに戻っていった。 「君が三日前にこの部屋に来たときも、電話は留守にセットされていたのか」と、台所からコーヒーカップを二つ持ってきた若宮由布子に、俺が訊いた。 「確かめなかったけど、わたし自身は電話の操作はしていません」  俺が電話機を見たときは、留守番機能はセットされていたから、そのセットは沢井英美がしたことになる。なにかの理由でこれから姿を隠そうとする人間が、わざわざ電話を留守になんかセットしていくものだろうか。 「極東テレビの清野というプロデューサー以外で、沢井英美と親しかった人間は?」 「朝岡《あさおか》里子《さとこ》です」 「歌手の、あの朝岡里子か」 「知らないんですか」 「朝岡里子ぐらい知ってるさ」 「そうじゃなくて、芸能界では英美さんと朝岡里子が親友で有名なことをです」 「俺の人生は、そういうことには縁がうすくできている」 「英美さんと朝岡里子は年齢も同じで、デビューの年も同じでした。英美さんが歌謡大賞の新人賞を取って、朝岡里子がレコード大賞の新人賞を取って、それ以来二人は最大のライバルであり、私生活ではもっとも仲のいい友達……一応、そういうことになっています」 「一応、な」 「少なくとも、もっとも仲の悪いライバルではありませんでした。ただこの世界、知り合いはみんな親友ということにしておかないと、生きていけない部分はあります」  電話のテープから声が流れていた時間は、きっかり十分間だった。なかには二、三人俺でも知っている歌手だか役者だかの名前もあったが、しかしどの伝言も「あとでまたかけなおす」か「暇なときに電話をくれ」程度の内容で、どれも今回の失踪事件につながるメッセージとは思えなかった。 「君がここに泊まっていた三日の間、沢井英美に電話はかかってこなかったか」と、テープをまた最初まで巻き戻し、念のために留守番機能にセットし直してから、ソファに戻って、俺が言った。 「わたしがいる間はかかってきませんでした」 「沢井英美というのは人づき合いのいい女ではなかったらしいな」 「そうでもありません。普通の用事はぜんぶ会社を通します。ですからここの電話番号を知っているのは、本当に限られた人たちだけだと思います」 「君なあ、その喋り方、なんとかならないのか」 「わたしの喋り方の、なんですか」 「だからその、なんていうか、邪魔《じゃま》な野良猫《のらねこ》を外につまみ出すような、その喋り方さ。どうも俺に悪意があるとしか思えないんだ」 「わたしは誰に対しても悪意なんかありませんよ」 「それならそれで……まあ、そういう性格なんだろうな」 「そういう性格なんです」 「そういう性格で、よく芸能人のマネージャーなんかやってられたもんだ」  コーヒーを飲み干し、天井に向かって一つため息をついてやってから、俺は部屋の奥に歩いて、ベランダ付きのその窓を半分ほど引き開けてみた。窓は南向きになっているらしく、遠くには庭園美術館の小さい森が霞《かす》んで見えていた。ベランダの幅は二メートルほどで、となりのベランダとは間隔が三メートルもあり、訓練された人間でないかぎりベランダづたいにこちら側に移ってくることは、まず不可能だった。考えられるのは上のベランダからロープをおろして侵入してくることで、その方法ならたとえここが五階だという条件でも、有り得ないことではない。  風で耳が冷たくなり、俺は窓を閉め、部屋の中に戻って、そこでソファに座ってコーヒーを飲んでいる若宮由布子に、ぱちんと指を鳴らしてやった。 「寝室を調べる。君も立ち合ってくれ。コーヒーを飲みながらで構わない」  若宮由布子がソファを立ち、俺が寝室に通じるドアを開けて、先に中に入り、つづいて若宮由布子も大股《おおまた》にドアをくぐってきた。その前の俺の台詞《せりふ》を皮肉と受け取ったのか、それとも飲み終えたのか、若宮由布子の手にコーヒーのカップは握られていなかった。  沢井英美の寝室は、広さ自体はとなりの居間と同じ絨毯敷《じゅうたんじ》きの十畳ほどの洋間だった。ただ三方の壁全面にセミダブルのベッドや化粧台や衣裳《いしょう》ダンスが押し付けられていて、印象としてはだいぶ狭い感じだった。 「ここに泊まっていて、君はベッドを使わないのか」と、カバーのかかった、皺一つないセミダブルのベッドを複雑な気分で眺めながら、俺が訊いた。 「わたしは居間のソファで寝ています」 「どうして?」 「他人のベッドを無断で使うわけにはいきません」  俺はまた「どうして?」と訊きそうになったが、その無意味さに気がついて、質問は胃の下に深く押し込んだ。どうせ「そういう性格だから」と答えるに決まっているのだ。 「この寝室は、君が三日前に来たときのままになっているか」 「タンスや引き出しは開けましたけど、手はつけていません。本当はそういうところも開けたくありませんでした」 「久保田社長に調べるように言われて、仕方なく調べたわけだ」  ドアの横の壁に寄りかかっていた若宮由布子が、俺のほうに口を尖らせて、こっくんとうなずいた。言葉にも表情にも愛想がないくせに、その仕草だけがへんに子供っぽくて、俺は思わず頭の中で苦笑した。 「調べてみて、それで、なにが無くなっていた?」 「いつも旅行に持って出る、ダンヒルのスーツケースが二つ」 「他には?」 「セーターとかスカートとかブラウスとか」 「下着もな?」 「はい」 「アクセサリーも?」 「好きだった真珠のピアスとか、それに、指輪やネックレスの宝石類も、ほとんど」 「化粧品は?」 「口紅やファンデーションや香水や、英美さんが普段使っていたものは、みんな無くなっていました」 「君の感じでは……」と、籐《とう》製の化粧台の前まで歩いて、置かれている乳液や化粧水の瓶《びん》を見おろしながら、俺が言った。 「衣類や化粧品は、沢井英美が自分で選んだと思うか」 「はっきりしたことは、わたしには分かりません」 「はっきりしたことは訊いてない。君がどう思うかを訊いてるだけだ」 「それは……」  若宮由布子が口を強情そうな形に結んで、壁から背中を離し、ベッドの足下《あしもと》のところへ、すとんと腰をおろした。 「わたしがどう思うかというだけのことなら、わたしは、そう思います」 「沢井英美が自分で選んだと?」 「はい」 「そのことは久保田さんにも言ったんだな」 「社長にも同じことを訊かれて、同じことを答えました」  昨夜久保田輝彦が、これは誘拐や拉致事件ではなく、沢井英美が自分から姿を消したものだとへんに確信していたのは、若宮由布子のその報告が理由だったのだろう。 「マンションの鍵は、君と沢井英美以外に、誰が持っている?」 「管理人室にあるだけです」 「久保田さんは持っていないのか」 「わたしの知るかぎりでは、持っていないと思います」 「管理人には沢井英美のことを訊いてみたか」 「わたしは社長以外に、このことは誰にも話していません。それに管理人は住み込みですけど、夜の十時以降は警備会社の人が見回りにくるだけです。もし英美さんが夜中に出ていったとしたら、マンションの人には誰にも見られていないと思います」 「非常に理論的だ。君が今の仕事をくび[#「くび」に傍点]になったら、いつでも俺の助手に雇ってやる」  俺は立ちあがって、窓まで歩き、そこのカーテンを指先でちょっと内側に開いてみた。窓の向かっている方向は居間と同じだったが、寝室のほうにはベランダは付いていなかった。 「久保田さんは沢井英美がいなくなった理由に、心当たりがないと言う。君も最初にそう言った。しかしなんの理由もなく突然一人の人間が姿を消すはずはない。それも沢井英美はただの女ではなく、有名な女優だ。退屈な日常に飽《あ》きて旅に出ただけとは思えない」 「柚木さんは、なにを言いたいわけですか」 「俺が今なにを言いたいのか、それを君に教えてもらいたいのさ」 「英美さんがいなくなった理由も、今どこにいるのかも分からないから、社長は柚木さんを雇ったんです」 「警察にも届けられないし、興信所も使えないから俺を雇っただけだ」 「わたしには同じことに思えますけどね」 「同じかどうかは結果次第だろう。沢井英美は、何歳《いくつ》だった?」 「三十二です。公称は三十でしたけど」 「三十でも三十二でも、一人前の人間が自分の意思で姿を隠した場合、かんたんに発見できるとは思えないな」 「でも、それが柚木さんの専門でしょう?」 「俺の専門は人殺しさ」 「あの事件は、だって、正当防衛だったはずじゃないですか」  窓の外を雀《すずめ》が飛んで、一瞬、俺は自分の注意をわざとそのほうに集中した。しかし若宮由布子が言った言葉の現実は、すぐ今の現実に戻ってきて、カーテンを指から離し、俺はゆっくりと部屋の中にふり返った。 「あの事件のこと、君、知っていたのか」 「社長から聞きました」  久保田輝彦は気配にも出さなかったが、相手は最初から俺の素性《すじょう》を知りつくしていたということか。『ナンバー10』の葉子から聞いたに違いないが、ということは、久保田と葉子は俺が考えていた以上に深い関係ということだろう。 「つまり君は、最初からずっと、俺のことを怖がっていたわけだ」と、窓の前からは動かず、ベッドの端に座ったまま背筋を伸ばしている若宮由布子に、俺が言った。 「それほどは、別に、怖くなかったです」 「人を二人も撃ち殺した人間がそばにいたら、ふつうは怖いと思うけどな」 「わたしは、そういうことは、気にしない性格です」  そういうこと[#「そういうこと」に傍点]を気にしない性格の人間なんか、いるはずもないが、背筋を伸ばして表情を変えまいと意地を張っている若宮由布子の努力は、俺としても単純に評価してやれる。最初から若宮由布子の態度が固いのは、たぶん俺の経歴を尊敬でもしていたからなのだろう。 「まあ、俺が言ったのは……」と、少し部屋の中に戻って、化粧台の端に腰で寄りかかりながら、俺が言った。「俺の専門は殺人事件で、人捜しには馴れていないという、それだけの意味さ」 「理屈は同じです。殺人犯人を捜すのも家出人を捜すのも、捜査の方法は同じはずです。手がかりを見つけて、それで英美さんが今どこにいるかを調べればいいんです」 「君、本当に俺の助手になる気はないか」 「ありません。わたしは脚本家志望です」 「脚本家? テレビとか、映画とかの」  若宮由布子が、初めて素直に笑い、顎《あご》を俺のほうに突き出して、眼鏡ごとこっくんとうなずいた。 「脚本、売れそうなのか?」 「去年テレビのドラマが一本採用されました。夜中の、ドラマというよりコントみたいな短いやつでした。でもわたし、本当は映画の脚本が書きたいんです。日本の映画はつまらないと言いますけど、それは脚本に時間とお金をかけないせいです。脚本さえしっかりしていれば日本の映画だって面白いものになるはずなんです」 「君、何歳《いくつ》だ?」 「二十八」 「ふうん」 「いけませんか」 「いや、まだ二十五にはなっていないと思っていた」 「映画を作るのに歳は関係ないと思います」 「それはまあ、そうだ」 「映画は嫌いですか」 「どうだかな。学生のとき仲のよかった友達が、映画監督志望だった」  俺は寄りかかっていた化粧台から、腰を離し、衣裳ダンスの前まで歩いて、たいして意味もなくその観音開きの扉を両方とも一杯に引き開けた。中には溢《あふ》れるほどのスーツやコートが掛かっていたが、仕立てもブランドも俺には縁のない代物だった。どうせ一着なん十万だかなん百万だかするやつばかりなのだろう。 「そのお友達は、それで、どうしたんですか」と、大股に俺のうしろまで歩いてきて、一緒にタンスの中を覗き込みながら、若宮由布子が言った。 「田舎に帰って植木屋をやってるさ」 「映画監督にはならなかったんですか」 「映画会社に入って、助監督まではやった」 「それを、どうして諦《あきら》めたんです?」 「どうしてだかな。やつの、そういう人生だったんだろうな……君、沢井英美が着ていったコートの種類、わかるか」 「アルマーニの、ベージュのロングコートだと思います」 「目立つコートか」 「知ってる人はアルマーニだとわかるでしょうけど、デザインはシンプルで、色も落ち着いたベージュ色です」 「沢井英美はどれぐらい金を持っていたと思う?」 「現金はあまり持たない人でした」 「現金を持ち歩かなくても困らない生活だったわけだ。貴重品とか預金通帳とか印鑑とか、いつもどこにしまっていた?」 「サイドボードの引き出しです」  衣裳ダンスの扉を閉め、そのサイドボードの前まで戻りながら、俺が訊いた。 「沢井英美の金を誰が管理していたか、知っているか」 「いえ」 「会社では?」 「経理のことは、わたしにはわかりません」 「年収はどれぐらいだった?」 「三千万ぐらい」 「三千万……」  もちろん、三千万なんて金は本物の殺し屋にでもならないかぎり、俺には縁のない額だが、しかし沢井英美の三千万という年収も単純に納得できる数字ではない。テレビのCMだってそれぐらいのギャラにはなるだろう。 「君たちの世界のことはよく知らないが、沢井英美クラスのタレントで、本当にそんな年収なのか」と、サイドボードの引き出しを、上から開けながら、俺が言った。  窓の前に場所を移し、眼を光らせて、若宮由布子が背伸びをするように俺の手元を覗き込んだ。 「税金で持っていかれるよりはいいんです。その代わり英美さんの経費はぜんぶ会社払いでした。このマンションの家賃もです」 「クルマも会社のものだったよな」 「衣裳代も会社の経費で落としていました」 「それじゃ沢井英美は、ふだん何に金を使っていたんだ?」 「そんなこと、わたし、知るわけないじゃないですか」  俺はサイドボードの引き出しを上から下まで、ぜんぶ掻《か》き回してみたが、株券も預金通帳も不動産の権利書も、財産に関するものは一つも見つからなかった。それはサイドボードの他の場所も同じことで、念のために化粧台の引き出しも衣裳ダンスの小引き出しも調べてみたが、金に関するものは、とにかく呆《あき》れるほどなにも発見できなかった。 「やっぱり、会社で管理していたのかも知れないな」 「お金のことですか」 「不動産とか、証券とか、他にもあるかも知れない」 「調べられると思いますよ」 「いや……」  俺は、もう一度部屋の中を見回してから、まだ意見のありそうな若宮由布子に会釈をおくり、促して、そろってその寝室を引きあげた。居間のほうが暖房がきいているし、煙草を吸うための灰皿もある。 「コーヒー、もう一杯もらえるかな」と、煙草に火をつけてから、ソファの前に立ったまま、俺が言った。  若宮由布子がうなずいて台所に入っていき、俺のほうはくわえ煙草のまま灰皿を持って、電話の前まで歩いていった。  俺が電話をかけた相手は、警視庁の『都民相談室』で室長をやっている、吉島《よしじま》冴子《さえこ》だった。現役時代一時俺の上司だった女だが、キャリア入庁だから三十でも階級は警部になっている。 「草平《そうへい》さん、電話してくると思っていたわ」と、低く喉の奥で笑うような声で、吉島冴子が言った。 「自重はしてるんだが、どうしても君の声が聞きたくてな」 「用意してあるわよ」 「なにを?」 「決まってるわ、クリスマスのプレゼント」  思わず、肺から空気が洩れそうになったが、音が外に出てしまう手前で、どうにか俺は我慢した。忘れていたわけではなかったが、そういえば今日はクリスマスイブなのだ。 「電話してきたの、そのことではなかったの?」 「もちろんそのことさ。昨日から忙しくて、電話ができなかった。君、今夜つき合ってもらえるか」 「なにか、様子がおかしいわね」 「そんなことはないさ。ただちょっと、急な仕事を抱え込んで、じたばた[#「じたばた」に傍点]してるだけだ」  吉島冴子が電話の向こうで、一瞬黙り込み、それから呆れたように、ふっとため息をついた。 「分かったわ。それで、なにを調べてほしいわけ?」 「女を一人捜しているんだ」 「一人だけなんて、革平さんにしては珍しいじゃない」 「その……」と、送話口を手で押さえて、一度|咳払《せきばら》いをし、気合を入れなおしてから、俺が言った。「沢井英美という女優、知っているか」 「アイドルでデビューして、最近映画やテレビのドラマに出ている、あの沢井英美?」 「あの沢井英美さ。彼女がここいく日かの間に成田を使っているかどうか、出入国管理局にチェックを入れてもらいたいんだ。俺が自分で航空会社のカウンターを当たっていたら、君とクリスマスを祝う時間がなくなってしまう」 「お金に困ってるなら言えばよかったのに」 「金はだいじょうぶだ。この仕事でなんとかなる」 「でもわたし、あなたに芸能ネタまで扱ってほしくはないわ」 「そういうことじゃない。会ったときに話すが、芸能ネタに首をつっ込んだわけではないんだ。とにかく、さっきのことを頼まれてくれ。二十日の夜十時からこれまでの時間、沢井英美が国外に出ているかどうか……本名は字が同じで、沢井|英美《ひでみ》というらしい」 「正しい仕事でのことなら、協力しないこともないけどね」 「約束する。正しい仕事でなかったら、君には頼まない。それから……」  若宮由布子が台所からコーヒーを運んできて、ソファに座り、俺は無意識に、背中を向けて送話口を手で囲い込んだ。 「それから、やはり二十日の夜十時以降、管内に沢井英美の特徴と一致する変死人が出ていないか、コンピュータにかけてみてくれないか」 「わたしへのクリスマスプレゼント、用意してあるの?」 「用意してあるさ。今週はそのことだけを考えていて、仕事が手につかなかった」 「本当かしらね」 「ぜったい本当だ。プレゼントはもうコートのポケットに入っている。電話で見せられないのが残念なぐらいだ」 「それじゃ、そういうことにしてあげようかな」 「七時に銀座の『ナンバー10』に来られるか」 「行けると思う。ねえ草平さん、もしプレゼントをコートのポケットから落としてしまっても、今夜は夕飯を奢《おご》ってくれるだけで構わないのよ」  電話を切り、若宮由布子には背中を向けたまま、そこで俺は一つ、力一杯深呼吸をした。今日がクリスマスイブであることが頭のどこかに引っかかっていたことは本当だし、冴子へのプレゼントを考えていたことだって、やはり本当だった。そしてその二つが本当なら、俺のポケットにまだプレゼントが入っていないことぐらいは、まあ、死刑になるほどの罪でもあるまい。  ソファに戻って、新しい煙草に火をつけた俺に、膝をのり出しながら若宮由布子が扇ごと顎を突き出してきた。 「今の、英美さんの特徴に一致する変死人て、どういう意味ですか」 「聞いていたのか」 「自然に聞こえただけです」 「念のためさ」 「念のためでも、考え方に飛躍がありすぎるじゃないですか」 「捜査に口を出したいなら、俺の助手になればいい」 「わたしは柚木さんに全面的に協力するようにと、社長から言われてるだけです」 「それじゃ君が一晩、俺とベッドをつき合うように、久保田社長から言ってもらうとするか」  若宮由布子がテーブルの上でコーヒーカップを鳴らし、肩を引いて、むっと黙り込んだ。 「今のは、冗談だ」 「冗談ぐらいわかります。わたしが怒っているのは、柚木さんが英美さんを変死人にしたことです」 「念のためだと言ったろう。可能性はすべてチェックする。頭のどこかに沢井英美が死んでいる可能性を引っかけたまま、捜査なんかできはしない」 「英美さんは死んでいません」 「わかってる」 「わかってるんですか」 「部屋を見ればわかるさ。外から侵入された様子も、荒らされた様子もない。無くなっているのは沢井英美がふだん使っていたものだけで、そのくせ貴重品はしっかり押さえてある。彼女は自分の意思で姿を消したんだ」 「死んでいないと、確信できるんですね」 「生きているほうが理屈は通る」 「わたし、やっぱり、会社で英美さんの財産を調べてみます」 「そのことなんだが……」  煙草をつぶし、コーヒーに口をつけてから、若宮由布子の目の色を確認して、俺が言った。 「君は、久保田社長とはどういう関係なんだ?」 「意味がわかりませんけど?」 「特別な関係なのか」 「特別って?」 「だから、男と女のさ」  テーブルの上の、若宮由布子のコーヒーカップがまた音をたてたが、残念ながら今回は音をたてただけでは納まらなかった。白いコーヒーカップが俺の目の中で、左から右にぶーんと空を切ったのだ。一瞬俺は首をすくめたが、左の頬にたっぷりとコーヒーの雨がかかって、とにかく、俺は茫然《ぼうぜん》とした。 「人間には言っていいことと悪いことがあります」 「それは、そうだ」 「ひどすぎるじゃないですか」 「考え方の問題では、あるな」 「どこでどういうふうに考えると、わたしと社長がそんな関係だと思えるんですか」 「これも、まあ、念のためだ」  俺は、そのときはもう一生懸命ハンカチを使っていたが、俺の努力と誠意はなかなか相手に通じてくれないようだった。こういう奇麗な女でも、頭のどこかがショートするとただの野獣になる。この場面での唯一の救いは、ただの偶然だったが、今日たまたま俺が黒いセーターを着ていたという、それだけだった。 「君が怒ってくれて、助かった」と、使ったハンカチをテーブルに放《ほう》って、意識して静かに息を吐きながら、俺が言った。「君がもし怒らなかったら、君自身が久保田社長との関係を認めたことになる」 「もし認めたとしたら、どうだっていうんですか」 「かんたんな理屈さ。これ以上君からの協力は期待できない」 「どうして……」  言いかけて、若宮由布子が手で口をおさえ、そしておさえたまま、肩で大きく息をついた。 「柚木さん、社長を、疑っているんですか」 「そういうわけではない。でも全面的に信じたい気分でもない。逆に誰か一人でも信じられる人間がいれば、仕事は非常に楽になる」 「わたしのことは信じてもいいですよ」 「人の顔に平気でコーヒーをぶっかける女をか」 「それぐらいのことでぐずぐず言ってたら、私立探偵なんかできませんよ。フィリップ・マーローもリュウ・アーチャーも、そんなことで文句は言いません」  俺はこれまでに読んだ探偵小説のストーリーを、必死で思い出してみたが、フィリップ・マーローとリュウ・アーチャーの顔にコーヒーをぶっかけた女は、なんとしても思い浮かばなかった。  若宮由布子が不意に立ちあがって、台所に歩き、そこでなにやらごそごそやってから、水でしぼったタオルを持ってまた俺の前に戻ってきた。 「セーター、大丈夫ですか」  コーヒーが最初にかかったのはセーターではなく、顔のはずだったが、俺の面《つら》の皮が厚いのは誰が見ても一目で分かるのだろう。 「こういうこともあるだろうと思って、ちゃんと黒いセーターを着てきている」 「わたし、経理のおばさんに気にいられてるんです。英美さんのお金のことはそのおばさんに訊いてみます、もちろん社長には内緒で」 「君が、久保田社長を裏切ることにならないかな」 「わたしは柚木さんに全面協力です。財産を調べることが英美さんの発見につながるとしたら、少しも社長を裏切ることになりません」  あくまでも考え方の問題だろうが、若宮由布子の論理がそういうことで統一されるのだとしたら、俺としても異議を申し立てる立場ではない。この子に見境《みさかい》もなくコーヒーカップをふり回す病気があったとしても、それもたぶん、俺には我慢の範囲内だ。 「脚本家志望の私立探偵助手候補には、沢井英美の財産と彼女の父親の住所を調べてもらう。だけどその前に一人だけ会いたい人間がいるんだ。極東テレビの清野というプロデューサーには、君から連絡をとってくれないか」 [#ここから5字下げ] 3 [#ここで字下げ終わり]  沢井《さわい》英美《えみ》が失踪したことだけは間違いなさそうだし、誘拐や記憶|喪失《そうしつ》での行方不明でないことも、ある程度は間ちがいない。しかしそれではこれがなにかの事件かというと、そのへんはなんとも分からない。いなくなったのはたしかに女優の沢井英美で、それだけで立派に事件だというなら、そういう価値観の人間も世間にはいるだろう。だが今の情況だけで判断するなら、沢井英美は沢井英美の事情でマンションから姿を消したのであって、そんな人間を無理やり捜し出すことで神様が俺を褒《ほ》めてくれるとも思えない。捜すのは要するに、久保田《くぼた》輝彦《てるひこ》側の都合でしかないのだ。俺は警官ではないし、最初から気分がのっていたわけでもない。受け取った金を返せばこんな事件からは今すぐにでも手は引ける。常識的にはそのとおりなのだが、しかしそうは思っても、やはりどこか、なにかが引っかかる。仕事も順調で人気も落ち目だったとは思えない女優が、こうまで突然、なにが原因で姿を隠さなくてはならなかったのか。そこになにか犯罪の臭気《におい》を感じてしまうのは、たんに俺がその世界に長く身を置きすぎたから、というだけの理由なのだろうか。  若宮《わかみや》由布子《ゆふこ》をスイング・ジャパンの事務所に帰し、俺が一人で向かったのは清野《きよの》忠之《ただゆき》がテレビドラマの制作に立ち合っているという、渋谷の貸しスタジオだった。  テレビ制作に関する予備知識はなにもなかったが、行ってみると、渋谷のその貸しスタジオは独立したビルになっていて、ビル自体が映画の撮影所のような役割りをしているらしかった。昔一度だけ撮影所というのを見学したことがあったが、そのビルにはあのころの生臭い活気や殺気立ったエネルギーはなく、政府の外郭団体が仕方なくファミリーレストランを経営しているという、それぐらいの印象だった。これで面白いテレビドラマを見せろといっても、要求するほうが無理なのだろう。  教えられていたとおり、スタジオに着いてからロビーの電話で第二リハーサル室を呼び出すと、清野忠之がすぐやって来て、俺をビルの外にある妙にだだっ広い喫茶店に連れていった。人目を憚《はばか》る要件で訪ねていったことは柏手にも分かっていたし、俺としても沢井英美の失踪を隠さずに話のできる人間は、今のところ清野忠之一人だけだった。清野の歳《とし》は俺と同じぐらいで、背は俺よりも高く、ジーパンに手編みらしいグレーのセーターというくだけた恰好《かっこう》だった。特徴のある顔ではなかったが、右の目尻に米つぶほどの小さい黒子《ほくろ》があった。この程度の男が沢井英美と関係をもてるのなら、十年前LPを買ったついでに、俺も立候補してみればよかった。 「最初に断《ことわ》っておきますが、わたしはあくまで、スイング・ジャパンの久保田さんから頼まれて沢井英美を捜しているだけです。この件を外部に漏《も》らしたり、週刊誌に持ち込んだりはいたしません」  俺の顔を、二、三秒黙って見つめてから、視線を外し、清野思之が口を結んだままテーブルのコップに腕を伸ばした。 「もちろんこれは、警察の尋問とはちがいます」と、注文したコーヒーに、うんざりしながら口をつけて、俺が言った。「ただこのまま沢井英美が姿を現さず、本物の失踪事件として警察が介入してくれば、あなたは参考人として事情を聴取されることになる。マスコミにもあなたと沢井英美の関係は知られるでしょう」 「なんとなく、脅迫されてるみたいだな」 「とんでもない。わたしは沢井英美のファンとして、一目でも早く自分を安心させてやりたいだけですよ」  こんな家出事件で警察が動くはずはないが、裏の仕組みを素人《しろうと》が知るはずはないし、それに沢井英美の失踪が長引けばマスコミが騒ぎ出すことは事実だ。 「しかし、久保田さんにもお話したが……」と、口を歪《ゆが》めて、セーターの下から煙草を取り出しながら、清野忠之が言った。「彼女がいなくなった件については、わたしはなにも知らないんでね。彼女に最後に会ったのはもう一ヵ月も前のことだ」 「つまり、一ヵ月前に、お二人は別れたということですか」  取り出した煙草を口の横に挟《はさ》み、時間をかけて火をつけてから、清野忠之が長い脚をずるっとテーブルの下に投げ出した。 「あなたを信用して申しあげるが、わたしと沢井英美は久保田さんが考えているような、そういう仲ではなかったんですよ」 「男と女の関係では、なかった?」 「まるでなかったとは、まあ、言いませんがね。三年ほど前に二、三度そういうことはありました。しかしそのあとは正直なところ、ただの友達というやつでした」 「あなたたちの世界は、どうも、わたしには分かりにくい」  俺も煙草を取り出して、火をつけ、清野の頭の上にその煙を長く吐き出してやった。 「三年前にそういう[#「そういう」に傍点]事実があって、しかもそれ以降は男と女の関係ではなく、ただの友達としてつき合っていた……まるでニール・サイモンの戯曲のようだ」  清野忠之が煙草を挟んだままの口で、にやっと笑い、テーブルの下でまたずるっと脚を滑らせた。 「狭い世界ですからね、仕事をしていれば必ずどこかで顔を合わせる。別れたあと一々気まずい関係になっていたら、この世界では生きちゃいけませんよ」  なんとも羨《うらや》ましいかぎりで、別居中の女房とのことを考えるまでもなく、もしかしたら俺も住む世界を間ちがえていたのかも知れない。 「一ヵ月前彼女に会ったとき、なにか変わった様子はありませんでしたか」 「あのときは局アナの女の子と、スイング・ジャパンの若宮くんも一緒だった。四人で食事をしてから神楽坂《かぐらざか》に飲みにいっただけですよ」 「どんなことを話しました? おもに、沢井英美は」 「冬休みのことや来年の仕事のことや、最近見た映画のことなんかでしたかね。飲むときの普通の話題です」 「冬休みは、沢井英美はどうすると言ってました?」 「どうだったかなあ。今年は一週間休めそうだとか、そんなことだったと思いますよ。最近の冬休みは彼女はずっとハワイだった。もしかしたら今ごろ、もう一人でハワイにでも行ってるんじゃないですか」  実際にそんなことであってくれれば、俺も助かるが、沢井英美が休暇を取るためだけにここまで人さわがせな真似《まね》をする女だとは、なんとなく思えない。しかしどっちみち、そんなことは出入国カードをチェックしてみれば分かることだ。  煙草を灰皿でつぶし、また飲みたくもないコーヒーに口をつけて、俺が言った。 「友人としてでもいいし、元愛人としてでもいいんですが、沢井英美についてはどう思います? 明るい性格か暗い性格か、思いつめるタイプかこだわらないタイプか」 「一口で言えといっても、ねえ」  コップの水を呷《あお》って、乱暴に灰皿を使い、清野忠之がゆっくりとソファに座りなおした。 「幸せな家庭じゃなかったらしくて、だから明るいってことはなかったなあ。頭のいい女で我がままは言わなかったし、仕事もやりやすかったですよ」 「幸せではなかった家庭とは、具体的には?」 「本人は喋《しゃべ》らなかったけど、久保田さんの話では母親が早く死んだとか、父親がどう仕様もない男だったとか、そんなことだったですかね」 「沢井英美本人は、そのことについては喋らなかったんですね」 「一言も言わなかった。この世界は難しい事情の人間が多いから、こっちも聞かない習慣にはなってます」 「それにしても一度はそういう関係になったあなたに対して、悩みとか愚痴《ぐち》とか、なにかは話したでしょう?」 「それが、どうもねえ。いや、隠している訳じゃなくて、本当に思い出そうとしてるんだが、彼女と会ったときの話題はほとんど仕事のことだけだった」 「不自然だとは思いませんでしたか」 「まあ、その、そういうことも多いわけですよ、この世界には」  ますます羨ましいかぎりで、ますます俺自身住む世界を間ちがえたような気はしたが、しかしだからといって、あの沢井英美とそういう[#「そういう」に傍点]関係にまでなったにしては、清野の話はあまりにも軽すぎる。 「彼女とプロダクションの関係については、なにかご存知ですか」と、煙草とコーヒーを我慢しながら、俺が言った。「待遇や仕事のやり方について、妓女が不満をもっていたようなことは?」 「待遇や仕事に不満をもっていないタレントがいたら、こっちが教えてもらいたいぐらいだ」 「彼女は歌手でデビューして、途中から女優に転進した。あれは沢井英美自身の意思だったんですか」 「必然的な流れというやつでしょう。歌手のほうがスケジュールもきついし、地方回りも多くなる。それに芸能人としての寿命も歌手では限度がある。演歌以外ではなかなか最後まで生き残れない。沢井英美の場合は、だから成功の部類だったでしょうね」 「女優としての将来性は、専門家からみて、いかがでした?」 「今だっていいところまでいってますよ。一皮|剥《む》ければとんでもない大女優になる可能性はあった。ただ可能性があってその一皮が剥けない女優というのも、かなりの数はいるわけです」 「沢井英美の場合は、剥ける可能性は、あった?」  清野忠之がなにか低く唸《うな》り、腕を組んで、俺の頭の上の空間に目尻に黒子のある視線をじっと据《す》えつけた。 「誰かそういうことの分かる人間がいれば、この仕事も楽なんですがねえ。演出家にもプロデューサーにもタレント本人にも、それだけは、誰にも分からないんだ」  なにか人生に結論があるとすれば、結局はそういうことなのだろう。沢井英美が今の人気を維持できるか、一皮剥けて大女優になるか、あるいは逆に落ち目のタレントとして芸能界の隅で生きつづけるか、そんなことは、誰にも分からないのだ。同じ理屈は俺みたいな人間の、俺みたいな人生にだって当てはまる。ただ俺の場合は、どこか南米にでもいる知らない親戚が遺産を残してくれるとか、買った宝籤《たからくじ》が十回つづけて一等に当るとか、そんな馬鹿ばかしい奇跡でも起きないかぎり野垂れ死にすることは目に見えているのだが。  それから五分ほど、たいして面白くもない芸能界の噂話を聞いて、俺は清野忠之を喫茶店から送り出した。清野の喋り方には最後まで納得できない軽さがあったが、そんなことを言えば最初から、俺にはこの芸能界というやつが丸ごと納得できないのだ。 [#ここから5字下げ] * [#ここで字下げ終わり]  吉島《よしじま》冴子《さえこ》と待ち合わせをした七時には、まだ二時間近くあったが、俺は喫茶店を出て、宇田川町《うだがわちょう》通りをぶらぶらと駅のほうにおりていった。電話ではつい嘘を言ってしまったが、現実にプレゼントをポケットから落としてしまったという言い訳を、まさか相手を目の前にしてするわけにもいくまい。  もう暗くなり始めた渋谷の街には、そうでなくても明るいネオンに、クリスマスイブというなんだか訳のわからない子供じみた華やかさを無神経に重ね合わせていた。俺だって女房や子供と暮らしていたときは二人へのプレゼントを用意したが、それをイブの日に手渡せたことは、娘が生まれてからはたったの二度だけだった。人殺しに明日はクリスマスイブだから事件を起こすなと言っても、残念ながら、誰も聞いてはくれない。  しかし西武デパートの中を一時間はど歩き回って、俺がやったことは、結局、『トトロ』の縫《ぬ》いぐるみを娘のところへ配送させる手続きだけだった。冴子へのプレゼントは最後まで思い浮かばず、俺は薔薇《ばら》を買っただけでデパートの前からタクシーに乗り込んだ。形として残るものが俺からのクリスマスプレゼントだったら、それは冴子にとっても、あまり具合いのいいことではないだろう。  俺が七時ちょうどに『ナンバー10』に顔を出すと、カウンターだけのバーにまだ客はなく、葉子《ようこ》とバーテンが二人だけで暇《ひま》そうに棚のグラスを磨《みが》いていた。この店が本格的に商売を始めるのは十時以降だから、もちろんそれを承知でこの時間に待ち合わせをしたのだ。 「やっぱりね、柚木《ゆずき》さんがわたしに花束なんか、持ってきてくれるはずないものね」  俺のとなりに座り、バーテンが用意したボトルでウィスキーの水割りを作りながら、眉を歪めて、葉子が笑った。 「柚木さん、どうしてわたしのことをくどかないのかなあ」 「眩《まぶ》しすぎてな。君みたいないい女とつき合ったら、心配で夜が眠れなくなる」 「夜なんか寝ないでしょう? 一晩中飲み歩いて、どうせ女子大生かなんかをなんぱ[#「なんぱ」に傍点]してるくせに」  この星野《ほしの》葉子も若宮由布子と同じ二十八だったが、男に馴れた喋り方も男に馴れた躰《からだ》の匂いも、若宮由布子と異質の生ぐささがあった。どちらを好ましく思うかは、趣味の問題だろう。刑事だったころヤクザとのいざこざを片づけてやったことがあって、それ以来葉子の勤めている店に俺もたまには顔を出すようになっていた。銀座のこの場所に自分の店を出したのは三年前だったが、俺はパトロンに会ったこともないし、名前を聞いたこともなかった。 「君が昨日俺のところによこした男な……」と、できあがった水割りに口をつけ、なんとなく棚に並んだ酒の瓶《びん》を眺めながら、俺が言った。「あのプロダクションの社長、君とはむずかしい関係なのか」 「へええ」と、きれいに揃えた眉をあげ、目の端に皮肉っぽい笑いを浮かべながら、葉子が横から俺の顔をのぞき込んだ。「わたしと久保田さん、そんな関係に見える?」 「金を持ってる男は、君とはみんな特殊な関係に見えるさ」 「馬鹿みたい。柚木さんが思ってるほど、わたし、自分を安くは売らないわよ」 「そういう意味では、ないんだ」 「他の女には優《やさ》しいくせに、わたしにだけいつもつらく当たるのよねえ」 「俺は君に、清く正しい日本の母になってもらいたいだけさ」  ふーんと、独特な鼻にかかる声で唸ってから、目の前の灰皿に、葉子がこつんと長い爪《つめ》を打ちつけた。 「昔ね、わたしがアイドルやろうとしてたとき、久保田さんにはちょっとだけ世話になったの」 「今ではなくて昔なら、君がやつにどういう世話になったって構わないさ。それもたくさんではなく、ちょっとだけならな」 「柚木さん、ばかに今夜、皮肉がきついじゃない?」 「クリスマスイブだもんな。平和なクリスマスを平和な家庭で過ごせない男は、みんな皮肉がきつくなる……それは冗談だけど、要するに、君がなぜあいつを俺のところによこしたのか、理由が分からないんだ」 「本当に分からない?」 「分からないな」 「そうよねえ。それが分かるぐらいなら、とっくにわたしをくどいてるものねえ」  葉子が、その声をまたふーんと鼻に引っかけ、一人で楽しんでいるような顔で、ちらっと俺に流し目を送った。 「あれは、わたしからのクリスマスプレゼント」 「クリスマスプレゼント?」 「柚木さん、この前来たとき、お財布の中が快適じゃなかったでしょう?」 「財布自体は快適なんだが、金のほうが、居心地悪がる」 「だから久保田さんのお金に場所を変えてもらえばいいのよ。ちょっとだけ、柚木さんのお財布の中にね」  俺は思わず、頭の中でなーんだと納得してしまったが、しかし葉子にまで財布の中味を心配されるとは、我ながら情けない人生だ。 「本当に、それだけなんだな」 「本当にそれだけよ」  まさか本当に『本当にそれだけ』なんてことがあるとも思えないが、今はその議論の中を這《は》い回っていても仕方はない。葉子が『それだけ』と言うならこっちも『それだけ』にしておいてやることが、大人の分別というやつだ。  バーテンに別のグラスを貰《もら》い、葉子のための水割りを作ってやってから、煙草に火をつけて、俺が言った。 「それで、昔世話になったちょっと[#「ちょっと」に傍点]というのは、どういうちょっとなんだ?」 「柚木さん、焼き餅やいてくれるのかなあ」 「君の周《まわ》りをうろつく男には、みんな公平に焼き餅をやく」 「まあね、どっちでもいいけど、わたしが十六で家《うち》をとび出したことは知ってたわよね」 「実家は群馬だったよな」 「六本木とか原宿とかでぶらぶらしてて、どうせ恰好《かっこう》よく遊ぶんならアイドルやろうと思ったのよ。そのころ久保田さんと知り合ったの。プロダクションを紹介してくれたり、歌のレッスンを受けさせてくれたりした」 「久保田は、そのころはなにをしていたんだ?」 「ブーミングっていう大手のプロダクションに勤めていたわ。わたしもそのプロダクションに入れてくれようとしたけど、社内的にうまくないことがあったみたい」 「久保田が独立して沢井英美を売り出すよりは、いくらか前のことか」 「あのときわたしと沢井英美が入れ代わっていたら、今ごろわたしのほうがスターだったわよ」 「久保田と沢井英美は、どこでどういうふうに知り合ったんだろう」 「それは知らないの。わたしもお金がほしくて水商売を始めちゃったし、久保田さんに会ったのはもう沢井英美を売り出したあとだったわ。わたしが勤めていた店に偶然やってきてね、劇的な再会ってわけ」  その劇的な再会のあと、どうせまた劇的な別れやまたまたの劇的な再会があったりをくり返したのだろうが、男と女の関係については、俺も偉そうなことを言えた柄《がら》ではない。 「ねえ……」と、俺が作ってやった水割りを軽くなめ、目に屈託《くったく》のない好奇心を光らせて、葉子が言った。「例の仕事、いくらで引き受けたの?」 「一週間で百万」 「たった百万?」 「俺の商売は君の暴力バーとは違って、誠意と信用が売りものなんだ」 「それにしても百万じゃ、うちのつけ[#「つけ」に傍点]だって払えないじゃない」 「そっちのほうもなんとか、誠意で解決するさ」  そのときドアのカウベルが、ごろんと鳴って、明かるいブルーのハーフコートを羽織った冴子が、ステージに登場するような鮮やかさで颯爽《さっそう》と店に入ってきた。いくら法律で職業選択の自由が認められているといっても、こういう女がキャリアで警察官になること自体、人殺しよりずっと重大な犯罪のような気がする。  葉子が、なーんだという視線を引きずって、カウンターの中に入っていき、その空《あ》いた丸椅子に、コートを脱いだ冴子が目だけで笑いながら腰をおろした。 「待たせてしまった?」と、柑橘《かんきつ》系のかすかな匂いを俺の鼻に流して、吉島冴子が言った。 「君が来てくれるなら、俺は老衰で死ぬまで待っている」  冴子が呆《あき》れた形に口を歪め、そのままバーテンに顔を向けて、軽く顎をうなずかせた。まずドライマティーニを飲むことは、冴子が一度でも顔を出した店のバーテンは自分の誕生日よりも正確に覚えている。 「これ、クリスマスプレゼントよ」  冴子が足下《あしもと》の紙袋から取り出したのは、あまり厚みのない、ノートぐらいの大きさの黒い紙包みだった。喜んでいいのか照れていいのか、その紙包みにはしっかりと銀色のリボンがかかっていた。 「開けてみる?」 「いや。楽しみはあとにとって置く」 「柚木さん、わたしに遠慮しなくていいのになあ」と、カウンターの向こうから、意味ありげに首を伸ばして、葉子が言った。  葉子の横槍には答えず、包みを受けとって丸椅子に置き、同じ椅子に置いてあった薔薇の花束を、俺が冴子のほうにちょっと持ちあげた。 「結局、俺、これしか思いつかなかった」 「あら」と、目を見開いて、口を尖《とが》らせながら、冴子が頬の片側に固い笑いをつくった。「大変だったんじゃない?」 「それほどでもないさ」 「無理しなくてもよかったのに」 「みんなに心配されるはど、俺の懐《ふところ》も淋しいわけじゃない」 「そういう意味ではないの。草平《そうへい》さんも苦労してるなって、そう思ったの。だって草平さん、その花束、昼間からずっとポケットに入れて持ち歩いていたんでしょう?」  ここで一言うまい反論が決まれば、俺の立場も有利になるのだろうが、冴子を相手にすると戦闘意欲が鈍《にぶ》ってしまうのは、残念ながらいつものことだった。それは冴子に対して元上司という劣等感があるからではなく、男と女の間にある、なにか普遍的な力の差なのだろう。 「例の、その、昼間電話で頼んだこと……」と、水割りのグラスを空《あ》け、そのグラスを葉子の前に滑《すべ》らせながら、俺が言った。「答えを聞かなくても、見当はつくけどな」  ドライマティーニが出来あがり、一口|啜《すす》ってから、軽くうなずいて、冴子が言った。 「二十日の夜十時から今日の夕方まで、沢井英美は成田を利用していないわね。管内の変死者リストにも該当者は見当たらない。必要なら大阪や福岡の入管を調べてあげてもいいけど」 「必要はないさ。沢井英美が関釜《かんぷ》フェリーで韓国に渡ることもないだろうしな」 「でもやっぱり、信じられないな」と、マティーニのグラスにこつこつと歯を打ちつけながら、横目をつかって、冴子が言った。 「草平さん、そんな芸能ネタみたいな仕事、どこで仕入れてきたの?」 「そっちの葉子ちゃんが回してきたのさ。俺を働かせて店のつけ[#「つけ」に傍点]を払わせたいらしい」  冴子が呆れたように目でうなずき、葉子も首を伸ばして、ふーんとうなずき返した。 「沢井英美も女なのよねえ。どこかにふらっと姿を消したくなるようなこと、あったんでしょうね」 「ふらっと姿を消しただけなら、ふらっと姿を現す可能性は、あるが……」 「草平さんは、そうではないと思うの?」 「用意周到のような気が、する」 「もしそうなら、捜されることは沢井英美にとって、迷惑なんじゃない?」 「それならそれで、そのときに考えるさ。とにかく一週間だけ、俺は沢井英美を捜してみる」 「草平さん」 「うん?」 「あなた、なにか変わったカクテルでも飲んだ?」 「どうして?」 「焦げくさいの。なんとなく、躰全体からコーヒーの匂いがする」  沢井英美の事件とコーヒーの匂いが、どこでどうつながるのかは知らないが、冴子の中では根拠のある因果律で、それはもうきっちりとつながってしまうのだろう。 「朝からコーヒーを飲みすぎたせいだ。コーヒーも飲みすぎると、汗の中に匂いが染み出すのかも知れない」  そんなことがあるはずもないが、条件反射で、つい俺は言い訳をしてしまった。若宮由布子にコーヒーをぶっかけられたと説明すれば、冴子はそれはどういう女かと訊いてくるし、若宮由布子が俺の顔にコーヒーをかけた情況も訊いてくる。答えているうちに結局は俺が女好きであり、地球上のすべての悪は俺の女好きが原因だということになって、果てしなく俺は自分の人格を非難されつづける。冴子の糾弾《きゅうだん》をいつも理不尽な論理だとは思いながら、しかし困ったことに、俺のほうはいつだってその論理に頭があがらないのだ。  水割りを飲み干し、思わずため息をついて、俺が言った。 「どっちみち暮は暇だし、飲み屋のつけ[#「つけ」に傍点]は払わなくてはならないし、正月には娘をスキーに連れていかなくてはならない。仕事があるだけ、自分でも幸せだと思っているさ」  それから俺たちは、ドライマティーニと水割りをもう一杯ずつ注文し、葉子を相手に三十分ばかりクリスマスの悪口を言って、『ナンバー10』を出た。店を出てから行ったのは、東京タワーのイルミネーションが見える勝鬨橋《かちどきばし》近くのレストランだった。そこで恥ずかしながら、クリスマスイブのディナーとかをやり、俺たちは早めに四谷のマンションに引きあげた。冴子からのクリスマスプレゼントはエルメスの高そうなマフラーだったが、俺が買った薔薇は、結局俺の部屋のガラス瓶に放り込まれることになった。法務省の役人で、大阪の地方検察庁に出向している冴子の亭主も、二十九日には東京に戻ってくるという。そのとき自分の家に赤い薔薇なんか飾ってあったら、余計なことを考えてしまう可能性も、まあ、なくはない。男と女の間題に関してだけは、まったく、他人《ひと》のことは言えないものだ。 [#ここから5字下げ] 4 [#ここで字下げ終わり]  クリスマスだというのに、雨がふっている。雪になってくれとまで贅沢《ぜいたく》は言わないが、一日歩き回ることがわかっている日に雨がふるどいうのも、普段の心がけが悪い証拠だろう。刑事だったころは雨でも台風でも雷でも、張り込みや尾行を苦にしたことはなかったが、刑事をやめて三年たった今、俺の価値観はかぎりなく怠惰《たいだ》な方向に流れ始めている。怠惰であることを快く感じ、怠惰であることを生活の中で正当化させようと企《たくら》んでいる。つまりは、なんのことはない、もともと俺の体質が怠惰であっただけのことで、これまでの三十八年間は社会や女房や子供に必要もない見栄《みえ》を張って生きてきただけのことなのだ。  冴子が出ていったあとの部屋で、俺はぼんやりとコーヒーを飲み、若宮由布子に電話をしてから、昨日と同じコートを引っかけて外に出た。首のまわりが昨日より暖かかったのは、そこに冴子から贈られたマフラーが巻きついていたからで、しかし俺の気分がなんとなくそわそわしていたのは、残念ながら、夕方新宿で若宮由布子と待ち合わせをしていることが原因だった。 [#ここから5字下げ] * [#ここで字下げ終わり]  俺が雨の中を出かけたのは、京王《けいおう》線の八幡山《はちまんやま》にある大宅《おおや》文庫だった。正午《ひる》にはなっていなかったが、俺は二階の窓際に席を陣取り、ここ十年ぶんの女性週刊誌と芸能月刊誌を、閉館ぎりぎりまで頭が腐るほど読み漁《あさ》った。十年ぶんといっても月刊誌は一誌でも百二十冊あり、週刊誌にいたっては四倍の四百八十冊もある。ふつうならそんなものは金を貰っても読まないが、現実に久保田から金を貰ってみると、やはり読まなくては済まなくなる。いくら思想的に怠惰の美学を構築してやろうと努力してみても、現実というのは所詮《しょせん》こんなものだ。  地道な努力がむくわれないことには普段から驚きはしないが、ただ夕方までねばって、沢井英美に関する情報のあまりの少なさに、俺も正直なところ、呆《あき》れるほど驚いた。同じアイドル出身の朝岡里子の情報なら小学校や中学校の成績から男関係まで、三十年間の軌跡は雑誌の中に消化不良をおこすほど詰め込まれている。  しかしそれが沢井英美の場合、生い立ちと私生活の部分が、どの雑誌からも感心するほどすっ飛ばされているのだ。もちろん食べ物はなにが好みで、洋服はどんなブランドを愛用しているかとか、映画やレコードの話題は十年ぶんそれなりに満載はされているのだが、俺が欲しい私生活の部分はどの記事も完璧なまでに避けてとおっていた。男とのゴシップも十年間で二度誌面に登場したが、二度とも洋服の上から毛糸の手袋をはめて躰に触った程度の、まるで実感のないものだった。これだけ雑誌に登場し、テレビや映画で沢井英美を知らない人間はいないはずなのに、それでは沢井英美がどこの誰でなにを考えていたのかということになると、俺も含めて、日本では誰一人として知っていないのだ。スターと一般人の距離がもともとそういうものなのか、それともこれは、沢井英美という女優にかぎった特殊な例であるのか。なんとも判断はできなかったが、しかし特殊な例であるからこそ、今回の沢井英美失踪事件も起こったのではないだろうか。  急に長いトンネルに迷い込んだような気分で、借り出した雑誌のすべてを返し、閉館と同時に俺は大宅文庫を出た。まだ雨はふっていたが、傘をさすほどではなく、俺は冷たい雨で頭を冷やしながらゆっくりと駅まで歩いていった。当時俺が好きだった沢井英美の歌のフレイズが、ふと頭に甦《よみがえ》った。 「仕方ないことをいくら真剣に考えても、やっぱりそれは、仕方ないことなのよ……」 [#ここから5字下げ] * [#ここで字下げ終わり]  新宿には待ち合わせの六時よりもいくらか早くついて、俺はJRの駅ビルの中にある本屋で時間をつぶし、ついでに、本屋のとなりにあった玩具屋でまた『トトロ』の縫いぐるみを買ってしまった。大きさは昨日デパートから娘のところへ送らせたものの半分ほどだったが、その眠そうな顔の呑気《のんき》な縫いぐるみを、なんとなく三軒茶屋にあるという若宮由布子のマンションに飾ってみたくなったのだ。  俺が喫茶店に入っていくと、一番奥の席にはもう若宮由布子が座っていて、眼鏡《めがね》をかけた生真面目《きまじめ》な顔で厚い文庫本に見入っていた。その生真面目な表情は昨日と同じ硬質さだったが、服装は黒いブラウスに肩パッドの入った白いテーラードジャケットで、なにか勘ちがいでもしたのか、しっかりと化粧をして足には赤いハイヒールを履《は》いていた。 「今夜、どこかパーティーにでも行くのか」と、ソファの上に荷物を置きながら、若宮由布子の向かいの席に座って、俺が言った。「あまり大人《おとな》っぽくて、人ちがいをしたかと思った」 「二十八ですから大人っぽいのは当たり前です」  相変わらず紋切り型の口調だったが、目は怒っていなくて、若宮由布子は読んでいた文庫本を小さいハンドバッグにしまい、背筋を伸ばして強く顎をうなずかせた。 「とりあえずこれ、英美さんのお父さんの住所です」  本をしまったハンドバッグから若宮由布子が取り出したのは、なにか動物の漫画がプリントされた、ピンク色のメモ用紙だった。渡されたメモには甲府市の所番地と、沢井|修造《しゅうぞう》という名前と『亀屋』という屋号と、あとは市外局番を含めた電話番号が書かれていた。この『亀屋』が沢井修造が甲府でやっている、食堂だか料理屋だかの名前なのだろう。  俺はメモをズボンのポケットにしまい、やって来たウエイターに馬鹿の一つ覚えのコーヒーを注文してから、改めて今日の若宮由布子の気合い[#「気合い」に傍点]を眺め直した。化粧はしているが顔立ちの幼さはごまかしきれず、そのせいか黒いブラウスと色白の顔とのコントラストが、心配になるほどの妙な色気を漂《ただよ》わせている。 「君、昨夜も沢井英美のマンションに泊まったのか」と、コップの水で口を湿らせ、頭に一つ深呼吸をさせてから、俺が言った。 「英美さんが見つかるまでは、社長にそうするように言われています」 「自分のマンションに戻ったほうがいい。久保田社長には俺から言っておく。だいいち、着がえの服もなくなったようだ」 「これは、わたしだってこういう服を着ることはあります。昨夜のデートに着ようと思っていたら、キャンセルされたんです」 「君とのクリスマスイブをキャンセルするような馬鹿は、碌《ろく》な死に方はしないさ」  俺が若宮由布子のデート相手に向き[#「向き」に傍点]になっても仕方はないが、こういうことに本能的に向き[#「向き」に傍点]になってしまう病気は、少しぐらい歳を取ったからって治るものではない。  コーヒーが来て、口をつけてから、背筋を伸ばして目を見開いている若宮由布子に、俺が言った。 「それで、沢井英美の財産や金の具合いは、分かったのか」 「経理のおばさんに訊いてみました。会社はタッチしていないそうです。月々お給料として英美さんの銀行口座にお金を振り込むだけだそうです。以前は会社の会計士が個人的に英美さんのお金も管理していたらしいですけど、いつの間にか英美さんが会計士を変えてしまったということです」 「沢井英美が自分の金をどう使っていたのか、会社では分からないということか」 「へんでしょう。わたしもへんだとは思いますけど、でも本当にそういうことらしいです」 「彼女の出身は、山梨だったよな」 「それは、わたしも英美さんから聞いたことがあります」 「中学や高校はどこを出たとか、どんな幼馴染《おさななじ》みがいて今なにをしているとか、それから親戚はどこに住んでいるとか、なにか聞かなかったか」 「聞いていません。そういうことは喋らない人でした。喋りたくない事情があるんだろうと思ったから、無理には訊きませんでした」 「そういう性格だからか」 「はい?」 「いや、その『喋りたくない事情』ってやつが、どうも今度の失踪につながっている気がする」  俺はまたコーヒーに口をつけ、我慢《がまん》していた煙草にも火をつけて、煙を若宮由布子の顔に届かない方向に向かって、ふっと吐き出した。 「君、これから、どこに行くんだ?」 「これからって?」 「今日これからさ」 「特別どこにも行きませんよ」 「そんなにお洒落《しゃれ》をして、まさか俺にだけ会いにきたわけでもないだろう」 「わたしは……」  身をのり出しかけ、肩の動きを途中で止めて、若宮由布子がすとんとソファに沈み込んだ。 「わたしはべつに、特別お洒落をして来たわけじゃありません」 「特別お洒落をしなくてそれだけ美人なら、人生が楽しくて仕方ないだろうな」 「昨日のかたき討ちですか」 「昨日の、なに?」 「昨日わたしがコーヒーをかけたから、仕返しのつもりでしょう?」  若宮由布子が、軽く尻を動かし、紙袋を引き寄せて、それをテーブルの上からぽいと俺の膝に投げてよこした。 「セーター、一応買ってきましたよ。だけど昨日は柚木さんが悪かったんです」 「昨日はセーターを脱ぐまで、ずっと反省をしていた」 「でもわたしが汚したことに変わりはありません。また女の人にコーヒーをかけられないように、これからは気をつけて下さい」 「君なあ、その喋り方、なんとかならないのか」 「生まれつきこういう喋り方なんです」 「男にクリスマスプレゼントを渡すときは、義理にでもにっこり笑うもんさ」 「そんなつもりで、セーターを買ったんじゃないです」 「そんなつもりはなくても、そんなつもりだと言うほうが可愛げがある」  俺は煙草を灰皿でつぶし、自分でも横に置いてあった紙袋を取りあげて、それをま上から若宮由布子の膝に放ってやった。 「なんですか」 「プレゼントさ」 「わたしに?」 「娘へのプレゼントを買ったついでに、思いついただけだ」 「柚木さん、子供がいるんですか」 「いたら罪になるか」 「いえ。ただ似合わないなと、思っただけです」 「そういうことは大きなお世話だ」  俺はまた煙草に火をつけ、コーヒーを飲み干して深呼吸をしてから、受け取った紙袋を掌の汗と一緒に膝の上に抱《かか》え直した。 「話は変わるけど、君とのデートをキャンセルした馬鹿の代わりに、今夜、夕飯をつき合ってもらえないかな」 「非常識ですね」 「やっぱり、非常識か」 「そんなことは常識で考えて下さい」 「それほど大袈裟《おおげさ》な問題では、ないと思うが……」 「夕方女の子と待ち合わせをしたら、相手は食事までつき合うつもりで来るものです。都合が悪ければ最初からそう言います。夕方の待ち合わせというのはそういうものです」  煙草とライターをコートのポケットにつっ込み、セーターが入っているという紙袋と伝票を取りあげて、若宮由布子の怒った顔に感動しながら、ゆっくり、俺は立ちあがった。  しかしそれにしても、この若宮由布子とのデートをキャンセルした馬鹿というのは、いったいどんな顔をしたやつなんだろう。  それから俺たちが行ったのは、三丁目にあるたいして高級でも豪華でもない、普通の料理屋だった。東京タワーの夜景が眺められるウォーターフロントもロマンチックかも知れないが、若宮由布子と二人でロマンチックになる覚悟は、いくら俺でもまだ出来ていなかった。若宮由布子も「気楽に腹一杯食べることが好きな性格だ」と宣言してくれたし、俺にしてもこれで今夜の仕事が終わりというわけではない。身についた習性は苦しかったが、一度仕事に入ってしまうと、その仕事に対して訳もなく俺は律儀《りちぎ》になる。  その料理屋で二人とも腹一杯[#「腹一杯」に傍点]食ったあと、行きつけのバーで馴染みのバーテンに『若宮由布子スペシャル』という恐ろしいカクテルを作らせ、一杯飲んだだけで、俺は一人でバーを出た。途中で店に傘を忘れてきたことを思い出したが、そのころにはもう雨はふっていなかった。 [#ここから5字下げ] * [#ここで字下げ終わり]  若宮由布子に教えられた久保田輝彦の家は、中央線の高円寺《こうえんじ》駅から歩いて十分ぐらいの、環七より外側の中野区《なかのく》側にあった。十一時だから夜中に近かったが、東京という町は盛り場でも住宅街でも、十一時なんて時間では誰も眠ろうとしない。それでも他人の家を訪ねるのに適当な時間ではなかったし、もし訪ねるにしても電話を入れてから行くのが常識だ。だからもちろん、俺は久保田の家に電話は入れなかった。  住居表示を頼りに捜し出した家は、屋敷を大谷石《おおやいし》の塀で取り囲んだ、かなり広い和洋|折衷《せっちゅう》の二階家だった。借家でなければこの屋敷だけでも相当な財産だろう。葉子に言われるまでもなく、二週間で百万の報酬は安すぎたかも知れないが、今更値あげを要求するほど、俺のプライドも低くはない。もっとも俺みたいな人間がプライドを持つことに意味があるのかという、人生の基本的な命題は、さて置くとしての話だが。  俺をやたら装飾家具の多い応接間に案内したのは、五十ぐらいの家政婦らしい女だった。久保田も十分ほど遅れてやって来たが、部屋に入ってきたときにはもう、黒ずんだ顔に戸惑いの表情がお面のように張りついていた。 「お待たせしましたな。少し前に帰ってきて、風呂に入っておったんですわ」  向かいのソファに座り、煙草に火をつけて、煙を吐き出しながら久保田が組んだ脚を慌ただしく貧乏揺すりさせた。 「いや、それにしても、この家がよくわかりましたなあ。会社に電話をいただければ外でお目にかかりましたがね」 「人を捜すのが商売で、他人《ひと》の家を捜すのが趣味なんですよ」  こんな家ぐらい電話帳だけでも捜し出せるが、そういう理屈を教えないことが素人《しろうと》に対して圧力になる。それに久保田のこの戸惑いと驚きの表情が、若宮由布子から俺が来ることの連絡を受けていない、なによりの証拠だった。 「で、こんな時間にお見えになったのは、沢井英美のことで何か分かったということですかな」 「分かったことは一つだけです」 「ほほう?」 「何も分からないということが、分かりました」  久保田が言葉を飲み込んだとき、部屋に家政婦が水割りのセットを持ってきて、その間だけ俺も久保田も一時腹の探り合いを休戦した。家政婦と同時に女の子が一人、無表情にドア口に姿を現したが、俺にぺこりと頭をさげただけでまた別の部屋に消えていった。背丈《せたけ》はじゅうぶん大人だったが、歳は俺の娘より二つか三つ上という程度だった。この時間まで塾かなにかに行っていたらしく、肩にはデイパックのような学生|鞄《かばん》を背負っていた。年齢からして久保田の娘らしかったが、顔立ちは誰に似たのか、大人の俺でさえ呆れるほど整っていた。 「久保田さんは、奥さんがおられないわけですか」と、家政婦がいなくなってから、受けとった水割りのグラスに一口だけ口をつけて、俺が訊いた。 「五年ほど前に死んだんですわ。交通事故でした……それで、沢井英美のことなんですがね、さっきおっしゃったのは、どういうことなんでしょうかな」 「沢井英美を捜そうにも、手がかりが少なすぎるということです」 「それを言いに、わざわざお越しになったんですか」 「これも商売です。一種のサービスだと思って下さい」 「沢井英美さえ捜してもらえれば、他にサービスは要《い》りませんよ」 「手間と時間はかかるもんです。特に世間に知られずに、事を納めようとすればね」  久保田の苛立《いらだ》ちを聞き流し、わざと部屋の中を見回してから、久保田のガウンの辺《あた》りに視線を戻して、俺が言った。 「仕事を引き受けるときに、聞くのを忘れていたことがありました。そのことの確認にお邪魔したわけです」  久保田輝彦が貧乏揺すりの脚を止め、グラスの縁《ふち》から一瞬、ちらっと俺の顔を盗み見た。 「久保田さんは、沢井英美とは彼女がデビューする前からの知り合いだとおっしゃった。具体的にはどういう知り合いだったんです?」 「そんなことが今度のことに、どう関係あるんでしょうな」 「どう関係しているかはわたしが考えます。お話し願えませんか」 「いや、その、特別に難しいことではないんですが」  濃いめの水割りを、半分ほど一気に呷り、軽く咳払《せきばら》いをしてから、久保田がソファの中で躰をななめに身構えた。 「沢井英美と知り合ったのは、わたしがまだブーミングという別なプロダクションにおったときでした。もう十二、三年も前のことです。たまたま喫茶店に入りましてね、そこで英美がウエイトレスをしていたんですなあ。それをスカウトしただけのことですよ。歌のレッスンやら踊りのレッスンやらを受けさせているうち、こいつはひょっとするかもしれないと閃《ひらめ》きました。わたしもまあ、独立して勝負に出たわけです。それだけのことなんですわ」  青山の事務所やこの家を見るかぎり、久保田はその勝負に勝ったわけだが、これからも勝ちつづけられる保証は、どこにもない。 「沢井英美をスカウトした喫茶店というのは、東京の喫茶店ということですね」 「渋谷の、なんとかいう花の名前がついた喫茶店でした」 「そのころ沢井英美は、どこに住んでいたんです?」 「どこでしたかなあ、あのころはたしか、千束《せんぞく》かどこかのアパートだったと思いますよ」 「そのアパートに、甲府から出てきて彼女は一人で住んでいた?」 「もちろん一人で住んでいましたが……柚木さん、そんなことが沢井英美がいなくなったことと、関係あるんでしょうかね」 「関係がなかったら貰《もら》った金を返してもいい」 「いや、べつに、そういう意味で言ったんとはちがうんですよ。その、そういうことなら申しあげますが、彼女が甲府から出てきたのは小学校のときだったらしくてね、あっちでいろいろあったようです」 「甲府で、ですか?」 「英美も詳《くわ》しくは言いませんでしたが、父親が女と駆け落ちしたり、あげくに母親が死んだりとかで、それで子供のとき東京の親戚に引き取られてきたそうです。死んだ母親の妹とかいうことでしたがね」 「信じられませんね」 「なにがです?」 「沢井英美に、東京の親戚があるということがです」  久保田が空《から》になった自分のグラスに氷とウイスキーを足し、目の端で俺のグラスも窺《うかが》ったが、俺のはうは最初から義理で形だけ口をつけているだけだった。 「それがその、親戚といいましてもねえ」と、作り直した水割りのグラスを、黒ずんだ手の中で揺すりながら、視線をあげずに、久保田が言った。「英美はその叔母というのを親戚だとは思っていなかったですよ。わたしも英美をデビューさせるとき、一度だけ挨拶《あいさつ》に行ったんですが、彼女は叔母さんには会いたくないと言ってね、出かけたのはわたし一人でした。会ってみたらなるほど、英美がその家を飛び出した理由が分かるような女でした。わたし、断言してもいいですが、英美はデビュー以来一度もあの女には会っていないはずですよ。今度だって英美があの家に近づくなんてこと、ぜったいに有り得ないと思うんですわ」 「沢井英美が突然姿を消すことも有り得なかったわけです。その叔母さんの住所を、教えてもらえますか」 「金町《かなまち》で『たぬき』とかいう飲み屋をやっていたはずですがね。でも十年以上前の話ですから、今でもやっているかどうか……」 「金町のどの辺りです?」 「駅のすぐ北側の、同じような飲み屋が集まった辺りでした。でも柚木さん、冗談じゃなく、あんな女に会っても本当に無駄だと思いますがねえ」  知らない人間に説明しても分からないだろうが、人殺しの犯人捜しでも家出人捜しでも、労力の九十パーセント以上はいつだって無駄なものなのだ。無駄を恐れていたら俺の商売は成り立たないし、その理屈がわかっているから、俺は今でもこの仕事をつづけていられる。  グラスをテーブルに戻して、わざとゆっくりと立ちあがりながら、俺が言った。 「無駄のつみ重ねが正解につながるもんです。わたしは、その主義で仕事をしています」 「まあとにかく、一日も早く沢井英美を見つけていただきたい。わたしがお願いするのはそれだけですわ」  玄関に通じるドアに歩きだした俺に、ソファに座ったまま、うしろから久保田輝彦が慌ただしく声をかけた。 「忘れてましたが、柚木さん、わたし明日から二日ほど仕事で東京を留守にせにゃならんのです。もしなにか分かったら、若宮をとおして連絡をさせて下さい」 「その若宮さんのことで、わたしも忘れていました」と、一応立ち止まり、首だけをふり向かせて、俺が言った。「彼女には自分の部屋に戻るように言いました。ただの勘ですが、沢井英美は、二度とあのマンションに帰らない気がします」 [#ここから5字下げ] 5 [#ここで字下げ終わり]  クリスマスを過ぎたからって、東京の街が暮らしい色に染まるわけではない。それでも路地の奥の狭い玄関に門松《かどまつ》が立っていたり、電車に凧《たこ》を持った子供が乗っていたり、道に歳末大売り出しのちらし[#「ちらし」に傍点]が落ちていたり、思いがけないところでふと年の終わりを感じさせることがある。しかし俺が正月を待ち遠しく思わなくなってから、もうずいぶんと長い時間がたつ。  飲み屋の場所を見つけて歩くには、本当ならそれに相応《ふさわ》しい時間があるのだろうが、そんなものに拘《こだわ》っていたらこっちの商売が成り立たない。俺は正午《ひる》前にマンションを出て、山手線と常磐線を乗り継いで葛飾《かつしか》区の金町に出た。コートの下には若宮由布子のセーターと吉島冴子のマフラーが同居していて、知らない人間は俺の人格を疑うだろうが、俺だってじゅうぶん自分の人格は疑っているのだ。  金町の駅を北側に出て、それらしい路地を二十分ほど歩き回っただけで、俺はかんたんに『たぬき』を発見した。間口《まぐち》が一間だけの埃《ほこり》っぽいガラス戸に、暖簾《のれん》はなく、夜になると提灯《ちょうちん》でもかけるらしい鉤《かぎ》フックが戸口の横に針金でぶらさげてあるだけだった。しかしその五軒となりには商売をやっているラーメン屋があって、俺は女将《おかみ》さんから『たぬき』の女主人の住所と、ついでにその名前を聞き出した。  名前は橋谷《はしたに》藤子《ふじこ》で、店から十五分ほど歩いた都営住宅に住んでいるという。女将の話では橋谷藤子が沢井英美の叔母に間ちがいないということだから、捜す場所さえ正しければ、日本にも沢井英美を知っている人間はちゃんといるものなのだ。  都営住宅の橋谷藤子の家は、同じ建物が同じ間隔でどこまでもつづいた、古い木造の平家《ひらや》建てだった。細長い建物に引き戸の玄関が二つずつついているから、どちらかといえば長屋に近い建て方で、橋谷藤子の家はその北側の玄関だった。玄関には門松も七五三縄《しめなわ》も飾られていなかった。  俺がガラス戸を叩くと、中からへんに疳高《かんだか》い声が聞こえて、それからずいぶん長い時間がかかって戸口に六十ぐらいの痩せた女が顔を覗《のぞ》かせた。赤く染めた髪に太めのカーラーを巻きつけ、浅黒い皺《しわ》だらけの顔に厚く化粧をして、ピンク色のネグリジェの上にやはりピンク色のキルティングガウンを着込んでいた。雰囲気は『たぬき』というよりも、気が狂った赤狐のようだった。 「橋谷藤子さん? 沢井英美のおばさんの」  女はうなずきも首を横にふりもせず、十秒ほど、あがり廊下に立ったまま狐のような細い目で、じっと俺の顔を見おろしていた。 「なんだいね、あの恩知らずが死んで、あたしに遺産でも残してくれたんかいね」と、しばらくして、俺の顔を見おろしたまま、さっきの疳高さが嘘のようなかすれた声で、橋谷藤子が言った。 「人生は思うようにいかないもんさ。沢井英美について聞きたいだけなんだ」 「あんた、なに? 警察かい?」 「週刊誌の記者さ。沢井英美の特集を組むんで、おばさんから彼女の子供時代のことでも聞ければと思ってね」 「なにが特集だい。いつだったかあたしが投書してやったときなんか、洟《はな》もひっかけなかったくせにさ。今ごろ言ってきたって話すことなんかあるもんかいね」 「話を聞かせてくれれば、あとで取材協力費が出るんだがな」  口を開きかけ、またしばらく俺の顔を見つめたあと、頭のカーラーを気難しそうにふって、橋谷藤子がちっと舌打ちをした。 「まあ、なんだいね、散らかってるけど、ちょっとあがってみないね」  橋谷藤子がガウンを引きずって部屋の中にあとずさりし、ガラス戸を閉めて、俺も埃の浮いたその板の間にあがり込んだ。板の間の奥が台所で、反対側には狭い部屋が二つほどあるらしかった。  入っていった六畳の部屋には、茶ダンスや棚やくず籠《かご》や新聞が息苦しくなるほど詰め込まれていて、おまけに石油ストーブが腹の立つほど部屋の湿度をあげ、橋谷藤子の顔ともあわせて、部屋のなにもかもが鬱陶しかった。  橋谷藤子が電気|炬燵《ごたつ》に据えつけてあるばかでかい座椅子に、すっぽりと収まり、俺にも炬燵をすすめたが、コートを脱いだだけで俺は炬燵に足を入れる気にもならなかった。 「よかったらあんた、蜜柑《みかん》でも食べてよさあ。今お茶を切らしちゃってさあ」  俺はうなずいただけで煙草に火をつけ、そのとんでもない装飾が施《ほどこ》してある橋谷藤子の顔を、もう一度勇気を持って確認し直した。先入観ではなく、どこをどう捜しても、顔の中に沢井英美との血のつながりは発見できなかった。 「でさあ、その取材協力費っての、いくらぐらい貰えるん?」 「話の内容次第だけど、普通は二、三万てとこかな」 「たった二、三万? あっちはなん千万だかなん億だか稼《かせ》いでるのに、実の叔母にはたった二、三万かい」 「おたく、沢井英美の母親の妹なんだって?」 「まったくさあ、なんの因果で姉さんもあんなことになったんかねえ。生きてりゃ今ごろお大名暮らしができたんにさあ。姉さんさえ生きてりゃ、英美《ひでみ》だってあたしにこんな仕打ちはしなかったはずなんだけどねえ」 「沢井英美の母親が死んだのは、いつごろのことなんです?」 「ずっと昔だよ。英美が小学校の四年だか五年だかのとき。もう二十年も前のことさあ」 「母親が死んだんで、英美さんをおばさんが引き取ったんだよね」 「ほーんと、苦労したんだよ。あんときゃ家《うち》にだって自分の子供が二人いたしさあ、そこへもってきて英美と新一だろう? あたしゃ自分が観音様にでもなったみたいな気分だったよ」 「新一というのは?」 「英美の兄貴さあ、知らないのかい?」 「いや……それで、そのとき英美さんの父親は、どうしていたんです?」 「それなんだよあんた。あのヤクザもんはとっくに女と駆け落ちしてて、どこ捜したってみっかりゃしないがね。あたしゃ最初から姉さんに言ってたんだ、板前なんて半端《はんぱ》もんと一緒になったら苦労するって。飲む打つ買うでおまけに他人の女房にまで手え出してさあ。みんなあいつが悪いんさあ。血すじってのは怖いやね。新一も英美も、どうせあの男に似たんだよ」 「兄さんの新一というのは、たしか、もう死んでいるんだよね」 「まったくさあ、あたしゃあいつが殺されたと聞いたって、驚きゃしなかったね。とにかく酷《ひど》いやつでね、中学んときから万引きはするわ喧嘩はするわ、それで中学を出たら育ててやった恩も忘れて、勝手に飛び出しちまった。家には一銭だって入れなかったよ。殺されて当然なやつだったさあ」 「新一さんが殺されたのは、いつごろのことです?」 「あれからだってもうずいぶんたったいねえ。十二、三年てとこかねえ」 「正確に思い出せないかな。そういうところが正確かどうかで、取材協力費の金額が変わってくるんだ」  橋谷藤子が、皺で囲まれた狐のような目をこれでもかというほど見開き、煙草に火をつけて、煙をふーっと長く天井に吐き出した。 「そうだいねえ、ありゃたしか、あたしが胆石で入院した年だから、五十五年だったいねえ。五十五年の五月か六月か、そんなとこだったいねえ」 「殺された情況は、どういうことだったんです?」 「喧嘩に決まってるじゃないか。英美にちょっかい出した男に因縁つけ行って、逆に相手の男に殺《や》られちまったんだとさ。あたしも詳しくは知らないけど、警察が来てそんなこと言ってたいねえ。生意気に英美だけは可愛がっていたけど、どっちみちあいつはいつかは誰かに殺されていたさあ。新一ってのはそういうやつだったよ」 「英美さんは、そのころはまだ叔母さんの家にいたわけ?」 「とんでもない。英美だって中学を出たあと、どこかに行っちまってたよ。あたしはちゃんと高校まで通わせたんだよ。そりゃ夜学だったけどさあ、実の娘でもないものを高校まで通わせるって、あたしがどれぐらい苦労したと思うね。その恩も忘れてあたしの悪口ばっかし言って、新一も新一なら英美も英美だったよ。碌《ろく》に口もきかないで陰気っくさい顔してさあ。あれでなにがスターだいね、どうせ躰でも売って仕事してるに決まってるんさあ。スターならスターらしく、育ててやった恩返しに家の一軒も建ててくれりゃいいんだよ」 「英美さんから、最近なにか連絡はなかったかな」 「あるもんかいね。この家を出てったときからうん[#「うん」に傍点]でもすん[#「すん」に傍点]でもないんだから。兄妹《きょうだい》そろってよくもまあ、あんな恩知らずな人間が生まれたもんだよ」  その恩知らずの新一が死んだのが、昭和五十五年の五月か六月だとすると、今から十二年前ということになる。久保田輝彦が沢井英美を喫茶店でスカウトしたのもそのころのはずだから、あとであれ先であれ、久保田は当然新一の事件を知っていたことになる。沢井英美のイメージを守るためにマスコミに対して事件を隠すのは分かるが、俺にまでなぜ、久保田はその事実を隠さなくてはならなかったのか。 「その、新一さんを殺したやつだけど……」と、炬燵の上の、吸殻が一杯にたまった灰皿で煙草の火をつぶして、俺が言った。「犯人の名前、おばさん、覚えていないかな」 「あたしが? あたしがどうして、そんなことを覚えてなきゃいけないんだいね」 「訊いてみただけさ。いくらかでも協力費の上づみができればと思ってな」  俺はズボンの尻ポケットから財布を取り出し、中から一万円札を三枚抜いて、それを蜜柑が盛られている竹|籠《かご》の下に、そっと挟み込んだ。久保田や沢井英美は会いたくなかったかも知れないが、俺の立場からすると、こういうおばさんにこそ会わなくてはならなかったのだ。  財布をポケットにしまってから、コートを引き寄せ、畳一枚ぶんほど尻を出口のほうに引いて、俺が言った。 「おばさん、沢井英美の父親が甲府《こうふ》で料理屋をやってることは、知っているのか」 「なんだって?」と、座椅子の中で飛びあがり、頭のカーラーをがくっと揺すって、橋谷藤子が鬼のように目を見開いた。「あいつが甲府に帰ってるって? それで料理屋をやってるって? あのヤクザもんの修造がどうして料理屋なんかやってるんだいね。だいいちそんなお金、どこから出たんだいね」 「どこから出たのか、それを俺も知りたいもんだ」  立ちあがって、座椅子から動こうとしない橋谷藤子に会釈をし、俺はそのまま玄関に歩き出した。部屋の奥から一瞬沢井英美がすすり泣く声が聞こえたような気がしたが、そんなものはもちろん、俺の錯覚でしかなかった。俺が沢井英美でも、やはり二度とはこの家に足を向けないだろう。  しかし、それにしても、橋谷藤子の『たぬき』で酒を飲まなくてはならない客は、いったい人生にどんな罪を背負っているというのだ。 [#ここから5字下げ] * [#ここで字下げ終わり]  橋谷藤子の家を出て俺が向かったのは、昨日も行った八幡山の大宅文庫だった。現役の警官なら警視庁の捜査ファイルも見られるし、新聞社にコネがあれば資料室も使えるのだろうが、今の俺は世間で言うただの半端《はんぱ》ものでしかない。その半端さ加減を、俺自身はけっこう快適に感じたりもするのだが。  大宅文庫についたのは、閉館までにまだ一時間以上ある時間だったが、俺はまた二階の閲覧室にあがり、昨日と同じ席に座って新聞の縮刷版を借り出した。借り出したのは五十五年の上期版だったが、五月と六月の二ヵ月ぶんといっても、ぜんぶ見ていたら半日かかってしまう。今日の狙いは社会面だけで、そして狙ったとおり、三十分で俺はその記事を発見した。見出しは『深夜の路上殺人』で、五月二十五日づけ夕刊社会面のまん中あたりに押し込まれた、三十行ほどの短い記事だった。被害者は沢井新一。加害者は久保田|宏《ひろし》。被害者の妹のことで口論となり、もみ合いのすえ加害者が被害者の腹を持っていた刃わたり二十センチの登山ナイフでつき刺した。被害者は病院に運ばれたが、到着後まもなく失血により死亡。犯人の久保田宏は駆けつけた警察官にその場で現行犯逮捕されている。  翌日の朝刊にも関連の記事が載っていたが、内容は夕刊のものと、ほとんど変わらなかった。ためしに俺は別の新聞も調べてみたが、内容は最初の新聞と同じようなもので、どうせ警察の発表をそのまま載せただけなのだろう、加害者と被害者の顔写真さえ使われていなかった。  俺は新聞記事をコピーに取り、一階の受付けで料金を払って、出口に向かいながら、紙を折りたたんでコートの内ポケットにしまい込んだ。そしてそのとき、ふと、そのことに気がついた。久保田宏。沢井新一を刺し殺した犯人の名前は、久保田宏なのだ。久保田なんて名前はこの世にいくらでもあるが、しかし今のこの狭い範囲で久保田という名前が二回も出てくるというのは、いくら偶然でも、偶然がすぎるのではないか。  沢井英美を見出し、スターにした男が久保田輝彦。沢井英美の兄を刺し殺した男が久保田宏。しかも沢井新一と久保田宏の喧嘩の原因は、沢井新一の妹の英美だというのだ。これぐらいのことはいくらでも偶然で片づけられるが、こういう局面での偶然は、そうめったにあるものではない。  俺はとりあえず大宅文庫を出て、駅までの途中にあった小さい喫茶店に入り、コーヒーを注文してから、まず青山のスイング・ジャパンに電話を入れてみた。若宮由布子は会社におらず、社長の久保田輝彦も今日は朝から出社していなかった。念のために久保田が泊まっている沖縄のホテルの電話番号を聞き、もっと念のために、電話に出たその女に社長の身内で久保田宏という名前の人間はいるか、と訊いてみた。  返ってきた答えはもちろん、心当たりはない、というものだった。久保田輝彦がスイング・ジャパンを始めたのが十年前で、殺人事件が十二年前だから、最古参の社員でも十年以上前のことは知らなくて当然ということだろう。  一度電話を切り、それから俺は白金《しろがね》の沢井英美のマンションと、番号を聞いていた三軒茶屋の若宮由布子のマンションに、つづけて電話を入れてみた。どちらも返ってきたのは留守であることを告げる、それぞれの応答メッセージだけだった。  そのあとちょっと考え、久保田の自宅にも電話を入れてみたが、家政婦は久保田の家に勤めてから一年しかたっておらず、久保田宏という名前は聞いたこともない、ということだった。  俺の頭の中で、それまでばらばらだったジグソーパズルが、なんだか知らないが、とにかくもの凄い勢いで動き始めた。久保田宏が誰であるにせよ、十二年前の事件と今回の沢井英美失踪事件とが、どこかで関係していることは、まず間ちがいない。この程度の殺人事件で新一が死刑になっていることはないはずで、懲役でもせいぜい十二、三年だろう。それだって刑務所の中で問題を起こさないかぎり、だいたいは七、八年で仮出所してくる。つまり久保田宏はもう刑務所を出ていて、沢井英美を中心にしたどこかこの世界で暮らしているということだ。そしてそれは、どこだか知らないが、たぶん沢井英美にもっとも近い場所だろう。  とにかく明日は、甲府に行ってみるしかあるまい。 [#ここから5字下げ] 6 [#ここで字下げ終わり]  甲府なんて街は、新宿から特急に乗ってしまえば二時間でつく。それでも駅を出ると風の冷たさが東京からの距離を感じさせ、俺は首のマフラーとコートの下のセーターに、ひたすら深く感謝をした。その若宮由布子には前の晩も夜中まで、自分でも呆《あき》れるほどなん度も電話したが、返ってきたのは例の色気のない応答メッセージだけだった。今朝も今朝で、若宮由布子は青山の事務所に出ておらず、俺は駅の外にある公衆電話からもう一度三軒茶屋と白金のマンションに電話を入れてみた。どちらのマンションにも、やはり若宮由布子は戻っていなかった。子供だか大人だか分からない、俺に悪意を持っているのか好意を持っているのか分からないあの不良娘は、新宿のバーで別れたあと、いったいどこへ姿を消してしまったのだ。  俺は仕方なく若宮由布子への連絡を諦め、駅前の交番で場所を聞いて、沢井修造が料理屋をやっているという城東町《じょうとうちょう》にタクシーを走らせた。繁華街からは少し外れているようだったが、タクシーではほんの七、八分の距離だった。  タクシーをおりてすぐに見つけた『亀屋』は、出入り口の前に幅三メートルほど玉砂利を敷きつめた、ガラス格子の小ざっぱりした店だった。看板もいや味が感じられない程度の大きさで、その看板には店の名前と一緒に小さく、活魚・季節料理と書かれていた。もし『亀屋』が夜だけの商売だったら、場所を確かめて帰りに寄るつもりだったが、幸い暖簾がかかっていて、俺はガラス格子を開けて中に入っていった。  店の中は、それほど凝《こ》った作りではなかったが、カウンターの他はすべてが座敷席になっていて、その座敷席で二組の客がなにか定食のようなものを食っていた。昼飯どきが過ぎたら夕方まで店を閉め、夜になったらまた本格的に開くという、よくある商売のやり方をしているらしかった。俺は店の一番奥まで進み、座敷にあがり込んで、店全体が見わたせる壁際を選んで腰を落ちつけた。  少し待つと、見習いらしい若い男が茶とおしぼりを運んできて、俺はあつ燗《かん》となま牡蠣《がき》を注文し、改めて店の中を眺め回してみた。従業員に女っけはなく、働いているのは男だけだった。  カウンターの中にも二人いて、一人は三十五、六の背の高い男だったが、もう一人の歳をとったほうが歳恰好からして沢井修造らしかった。沢井英美の三十二という歳を考えると、父親も七十に近くなっているはずだが、まだ背筋も伸びていて、うすくなった白い頭にきっちりと紺《こん》の手拭を巻きつけていた。痩せて頬に太いたて皺が刻まれた横顔には沢井英美を思い出させる雰囲気があり、かたく結んだ口元には若いころの放蕩《ほうとう》の翳が残っていた。  それから二十分ほど、俺はやって来た酒となま牡蠣で時間をつぶし、そのあとでまた昼だけのメニューらしい焼き魚定食というやつを注文した。時間は二時になっていて、若い店員が暖簾をおろしに行ったから、店を閉めて夜のための仕込みでも始めるらしかった。沢井修造はほとんど顔をあげず、カウンターと奥の厨房《ちゅうぼう》を行き来しながら、たまに背の高い板前に小声でなにか話しかけるだけだった。俺はその鯛《たい》の味噌焼き定食を十分で片づけ、コートとマフラーをとって、勘定を払うために出口に近いレジに歩いていった。勘定を払っているときに、一度だけカウンターの中の沢井修造と目が合ったが、修造は軽く会釈をしただけで最後まで口を開かなかった。俺にしても最初から、修造から沢井英美について話を聞き出せると思っていたわけではなかった。  店を出たところでタクシーを拾い、最初の予定どおり、俺はタクシーを甲府の市役所に乗りつけた。城東町の店は裏が住宅になっていたから、店の所在地と沢井修造の住まいとは同じ住所になっているはずだった。俺は混み合っている市民課の窓口に、沢井新一の名前で修造の住民票を申請し、十分待っただけでその住民票を手に入れた。  それによると沢井修造が現在の住所に転入したのは三年前で、以前の住所は横浜市|瀬谷区《せやく》となっていた。三年前まで沢井修造は横浜に住んでいたのだ。東京と横浜ではたしかに別区域だが、それぐらいの距離を通勤している人間は、東京にだって横浜にだってなん人もいる。住民票の同居人欄は空欄で、沢井英美の母親が死んで以来、修造も籍だけは独身ということらしかった。本籍は同じ山梨県内の塩山《えんざん》市になっているから、転居をしても本籍までは変えなかったのだろう。時計を見ると三時少し前で、電車でもタクシーでも、急げばなんとか市役所が閉まる時間には間に合いそうだった。  俺は甲府の市役所の前でまたタクシーに乗り、甲府駅ではなく、そのまま塩山の市役所に向かわせた。電車を使ってもし間に合わなければ甲府か塩山に一泊することになる。そんなことをしても意味はないし、甲府にも塩山にも泊りたい気分ではなかった。  四十分ほどで塩山の市役所につき、そこで俺は、ちょっと考えた。住民票なら死んでいる新一の名前でも請求できるが、戸籍謄本となると、はたしてどんなものか。原本では当然新一は死亡除籍されているはずで、その新一が修造の戸籍謄本を請求したのでは、この塩山市役所に幽霊がやって来たことになる。かといって今すぐ沢井英美と同じ歳恰好の女を連れてくるというのも、物理的には無理な話だ。郵便請求をしていたら往復で一週間もかかってしまうし、だいいちもうすぐ正月で、正月は市役所だって休みになる。そうなれば沢井修造の戸籍謄本を手に入れるのは、来年の正月あけになる。今度の事件は、たぶん、それほど気長に俺を待ってはくれないだろう。  俺は覚悟を決めて、また新一の名前を借り、戸籍筆頭者の欄に沢井修造の名前を書き込んで用紙を戸籍係の窓口に提出した。これだけの市で窓口にもこれだけの人間が押しかけていれば、一人ぐらい幽霊が紛れ込んでも神様は大目にみてくれるだろう。  そして案の定、前世でのおこないが良かったらしく、どこの神様だか知らないが、とにかく神様は俺に修造の戸籍謄本を渡してくれた。十五分後には俺はその謄本を持って塩山の市役所から逃げ出していたが、実際に謄本を開いたのは、市役所から塩山駅まで乗った、タクシーの中だった。 [#ここから5字下げ] * [#ここで字下げ終わり]  沢井修造。大正九年塩山市で出生。昭和二十七年|高野《たかの》芳江《よしえ》との婚姻届け出により入籍。昭和三十一年、新一出生。昭和三十五年、英美出生。昭和四十四年、妻芳江死亡により除籍。昭和五十五年、新一死亡により除籍。  そこまではいい。そこまでは今まで調べてきたとおりだったが、問題はそのあとだ。沢井英美が葵《あおい》という名前の人間を養女として自分の籍に入籍させているのだ。それも日づけは今年の十月で、沢井修造一女沢井英美との養子縁組届け出により同日入籍、となっている。いったいこれは、どういうことだ。しかも養女になった葵の旧姓は久保田で、昭和五十四年東京都中野区で出生、父久保田輝彦の届け出により入籍とある。  要するにこの戸籍謄本が言っていることは、久保田輝彦の娘の久保田葵を三ヵ月前に沢井英美が養女に迎えている、ということなのだ。こんな馬鹿なことがあろうはずはないが、しかし現実に、この紙切れはそれが現実だと言い張っている。戸籍謄本が間ちがっているのか、あるいは事実を言っているのか、事実だとしたらいったい、それぞれの人間関係はどういうことになっているのか。  もちろん俺は、帰りの電車に乗り込む前にテレホンカードを買いまくり、東京に電話をかけまくっていた。  若宮由布子はやはり消えたままで、おまけに昨夜久保田の家で見かけた、あの妙にひょろ長い、顔立ちの女の子までがいなくなっていた。家政婦の話では女の子の名前は葵で、しかもその葵を今朝家から連れ出したのは、なぜか、若宮由布子だという。そのとき俺は、突然あることを思い出した。  最初にスイング・ジャパンに行った日、たしか若宮由布子に『あおいちゃん』から電話がかかってきたのではなかったか。芸能界では人の名前をちゃん[#「ちゃん」に傍点]づけで呼ぶ習慣があるらしいから、俺も単純にそれを『青井ちゃん』だと思い込んでいた。若宮由布子とのデートをキャンセルした相手まで『青井ちゃん』だと思い込んでいたのだ。しかし理屈がわかってみれば、あのときの『あおいちゃん』は『青井ちゃん』ではなく、九十パーセント以上の確率で『葵ちゃん』であるはずだった。  電車が東京につくころまでには、今回の事件の構図が、もう俺にも漠然と見え始めていた。しかし構図が見えたところで、事件が解決するはずはないし、俺にしたってこんな事件を無理に解決させてやる義理は、誰に対してもないはずだった。  今回の沢井英美失踪事件は、もともと、久保田輝彦が望む形では解決しない仕組みになっている。俺の安っぽいロマンチズムも解決させたくないと言っているし、解決させる能力だって持ち合わせていない。沢井英美は俺の前に姿を現さないし、白金のマンションにも帰らない。もうテレビにも出ないし、映画にも出ない。そしてたぶん、歌だって歌うことはないだろう。それを残念に思うのは久保田輝彦一人だけで、二、三年もすれば日本中のすべての人間が沢井英美なんて名前は忘れている。タレントとはそういうもので、そういうものであることは、誰よりも沢井英美本人が一番よく知っていることなのだ。  電車が新宿についたのは八時少し前で、飲み屋に直行しても四谷のマンションに帰ってもよかったのだが、自分自身を納得させるためだけに、俺は高円寺に出て久保田の家に寄ってみた。いたのは家政婦だけだったが、家政婦の話では、失踪する前までの沢井英美は週に一度ほどこの家に来て、久保田がいなくても葵とほ長い時間を一緒に過ごすことが多かったという。ためしに俺が、葵は久保田の実の娘かと訊いてみると、家政婦は少し考えてから、断言はできないがたぶん違うと思う、と答えてくれた。うすうす事情には気づいているらしかったが、俺は久保田への連絡は自分がすると言って、その家を出た。  高円寺の駅まで歩く問、頭にまた「仕方ないことをいくら真剣に考えても、やっぱりそれは仕方ないことなのよ」というフレイズが浮かんだが、いくら考えても歌のタイトルまでは思い出せなかった。 [#ここから5字下げ] * [#ここで字下げ終わり]  俺が飲み屋によらずに部屋に帰ったのは、思い出せるかぎりでは、今年初めての奇跡だった。留守にセットしておいた電話には三本伝言が入っていて、一本は娘からのスキーに行く日にちの確認で、あとの二本は両方とも飲み屋にいる友達からの呼び出し伝言だった。娘への返事は明日でいいし、飲み屋からの呼び出しは無視すればいい。柄《がら》にもなく疲れた気分だったのは、山梨が遠かったからではなく、受けた仕事を完結できないことの歯痒《はがゆ》さと、金に釣られてこんな仕事を引き受けてしまった自分自身に対する哀れみが原因だった。プロはプロらしく、最初から殺人《ころし》にだけ首をつっ込んでいればよかったのだ。  俺は沖縄の久保田輝彦に電話をする気にもならず、熱めの風呂で躰《からだ》から汗と鬱屈《うっくつ》を追い出してやり、久しぶりにテレビの前に陣取って、ウイスキーをやりながらビデオで映画を見はじめた。十二時までの間に一本だけ電話が入ったが、それも飲み屋からの誘いで、俺の人生から飲み屋を引くといったいなにが残るのか、正月になったら一度ゆっくり考えてみる必要がありそうだった。  映画を見終わり、寝酒のウイスキーにも限界を感じ始めたとき、また電話が鳴って、俺はそこまで膝で這っていった。受話器をとった俺の耳に、腹が立つほど呑気な口調で、寝酒の酔いをぶっ千切《ちぎ》る紋切り型の声がとび込んできた。 「もしもし? あ、わたしです。若宮です。若宮由布子です……」 [#ここから5字下げ] 7 [#ここで字下げ終わり]  俺もなん度か成田を使ったことはあるが、こんなに人でごった返した成田に来たのは、生まれて初めてだった。盆暮《ぼんくれ》の空港の混雑はテレビのニュースで見たことはあるし、その不幸に遭遇した友達の話も聞いたことはある。しかし今日の人の数は、これではまるで初詣《はつもう》での明治神宮ではないか。  こんな大勢の中で若宮由布子を発見する自信はなかったが、心配はなく、「とにかく明日の一時に北ウイングの売店前に来ればいい」という命令どおり、若宮由布子のほうが俺を発見してくれた。若宮由布子はベージュ色のコールテンパンツに焦げ茶の革ジャンだったが、顔には相変わらず黒縁眼鏡をかけていて、服装は変えても眼鏡だけは金輪際《こんりんざい》外したくないらしかった。  俺の前まで来て立ち止まり、生意気に肩をすくめてみせたあと、となりに並びかけてきて、自分が歩いてきた方向に若宮由布子が軽く口を尖らせた。視線の先には四人の人間が立っていて、人混みの中でお互いを守り合うように、静かな表情でそれぞれに肩を寄せ合っていた。チェックインは済んでいるらしく、持っているのはみな小さいセカンドバッグだけだった。  沢井修造と目が合い、俺は甲府の店でやったのと同じように、黙って会釈だけを送り返した。となりには昨日カウンターの中にいた背の高い男が立っていて、男は肉づきのうすい葵の肩に掌をのせたまま、緊張した顔をただじっと滑走路の方向に向けていた。昨日は気がつかなかったが、もちろん、その男が久保田宏だった。  そして女優の沢井英美は、ジーパンに紺のセーターを着て白い鍔《つば》つき帽を目深《まぶか》に被《かぶ》り、それ以外は顔を隠すふうもなく、感心するほど落ち着いた表情でゆったりと他の三人に向かい合っていた。周りにいる人間の誰も沢井英美には気づかず、沢井英美自身も気づかせる雰囲気を出していなかった。俺が感じたのも、テレビで見るよりはずっと小柄な女だなという、それだけのことだった。  アナウンスが流れ、四人が顔を見合わせて、それぞれが肩の荷をおろしたように、同時に小さくため息をつき合った。若宮由布子が四人の前に歩いていったが、四人が歩き出すとすぐ、また俺のところに戻ってきた。  四人はそのまま出発ロビーへの階段口まで進み、修造だけを残して、あとはあっけなく階段の下に姿を消していった。階段をおりる前に沢井英美がていねいに頭をさげたが、それが俺に対する挨拶だったのか、若宮由布子に対する挨拶だったのか、俺には分からなかった。一人残った修造はしばらく階段の下を見つめたあと、俺と若宮由布子には見向きもせず、背筋を伸ばした武骨な歩き方で逃げるように人混みの中に消えていった。これ以上三人を見送るつもりもなく、見送る資格もないと自分に言い聞かせているような、ぎこちなくて悲しい歩き方だった。  ふーっと、大きく肩で息をつき、短い髪を耳のうしろに掻きあげながら、横から若宮由布子が俺の顔を見あげてきた。 「どうぞ。いいですよ」 「なにが?」 「好きなだけ文句を言って下さい」 「文句なんか、べつに、ない」 「無理をすると血圧があがります」 「俺の目が赤いのは、ただの、寝不足のせいだ」  俺は到着階のロビーに向かって歩きだし、若宮由布子も革ジャンのポケットに両手をつっ込んで、下手なスキップを踏みながら気楽に歩き出した。 「本当に、いいのになあ」 「だから、なにが?」 「柚木さん、好きなだけ怒っていいのになあ」 「怒ってはいない。君の下手な芝居が見抜けなかった自分に、腹を立てているだけだ」 「そういうのを普通は、怒ると言うんです」 「君みたいな女は脚本家なんかやめて、役者になればいいんだ」  実際俺は怒っていなかったし、誰かに対して腹を立てているわけでもなかったが、ただ気分のどこかが、どうにもこの若宮由布子を憎らしく感じていた。  俺たちはそのまましばらく、黙って人の間を縫って歩き、到着階におりて黙ったままリムジン乗り場まで歩きつづけた。若宮由布子は下手なスキップはやめていたが、頭の中の屈託《くったく》は俺よりもだいぶ少なそうだった。  新宿行きのリムジンバスの出発には、二十分あったが、俺はロビーに戻らず、ドアから少し離れたガラスの壁に寄りかかって、そこで一つ深呼吸をした。空気は耳が痛くなるほど冷たかったが、ロビーの人いきれよりは気持ちよかった。若宮由布子もロビーには戻らず、革ジャンのポケットに両手をつっ込んだまま、背中を丸めてとなりの壁に寄りかかっていた。 「わたしだって、けっこう苦労したのに」と、俺の顔は見ずに、下を向いたまま、いくらか殊勝な口調で、若宮由布子が言った。「昨夜電話をしたのも英美さんには内緒だったし、それに柚木さんに感づかれないように、わたし、ずっと緊張していたのになあ」 「どっちでもいいけど……」と、取り出した煙草に火をつけ、煙を冷たい空気に向かって長く吐いてから、もう一度息を深く吸い込んで、俺が言った。「要するに、君は最初から、ぜんぶ知っていたわけだよな」  顔を俯《うつむ》けたまま、小さく鼻水を啜《すす》って、こっくんと若宮由布子がうなずいた。 「久保田輝彦と久保田宏は、どういう関係なんだ?」 「兄弟だそうです。お母さんは別らしいですけど」 「葵って子は、英美さんと宏の子供ということか」  相変わらずポケットに両手をつっ込んだまま、また小さく、若宮由布子がうなずいた。 「十二年前、宏が英美さんの兄さんを刺し殺したとき、英美さんはもう葵を身籠《みご》もっていた」 「五ヵ月で、二人は結婚する予定だったそうです」 「ところが兄の新一がそれを許さなかった。新一は妹に近づくどんな男も許さなかった。子供のときから二人で苦労したせいだろうが、新一の妹に対する愛情は度を越していた。十二年前の五月二十四日の夜、新一と宏は喧嘩になり、宏は新一を刺し殺してしまった……ナイフは、宏のものだったのか」 「宏さんも英美さんの兄さんのことは知っていたから、ただ威《おど》すためにと思って持っていたそうです。ナイフが宏さんのものだったので、正当防衛は成り立たなかったそうです」 「宏はいつ刑務所から出てきたんだ?」 「五年前。でも本当の刑期が満了したのは今年の六月でした。それで出発が今まで延びていたんです」 「三人が行った先は?」 「オーストラリアです。向こうに牧場を買ってあるそうです。羊の牧場だそうですよ」 「久保田社長は弟の事件のあと始末をしてるうち、英美さんと知り合ってその才能に気がついた……事の始まりは、そういうことなんだよな」 「そういうことらしいですね。英美さんも宏さんが刑務所から出てくるまで、一人では葵ちゃんを育てられないし、お父さんも見つかっていなかったし、それで社長に任せることにしたらしいです。葵ちゃんの籍も社長の籍に入れて、宏さんが戻ってくるのを待つつもりだったということです」 「しかし歌手でデビューしてみたら、本人の思惑《おもわく》に関係なく英美さんはスターになってしまった。やめると言っても久保田社長は聞き入れない。突然引退したらマスコミも騒ぐ。そうなれば宏や葵のことも世間に知れる。そういうジレンマを、英美さんは十二年間背負いつづけていた」 「社長は葵ちゃんまでタレントにしようとしたんです。英美さんもそれだけは我慢できなくて、それで、今度のことを決心したんです。社長に知られないように葵ちゃんの籍を移すのは簡単でしたよ」 「まったく……」  俺は吸っていた煙草を足下に捨て、靴の底で踏みつぶして、それを思いきり、ぽーんと車道側に蹴とばしてやった。 「どうでもいいけど、君たち全員で、よくもここまで人さわがせをやったもんだ」 「だから怒ってもいいって、最初から言ってるじゃないですか」 「俺も最初から怒っていないと言ってる。呆れてるだけさ。だけど君は、修造の住所や英美さんの金のことで、どうして俺に協力をしたんだ?」 「協力しなかったら、柚木さん、わたしを疑ったでしょう?」 「それは、まあ、そういうことになる」 「人さわがせだったのは柚木さんのほうです。気づかれないように、甲府のお店だって普段どおりにしておきました。今度のこと、いつごろ気がつきました?」 「沢井修造の戸籍謄本を見て、だいたいのことは、分かった」 「やばかった[#「やばかった」に傍点]ですね」 「やばかったな」 「社長が柚木さんに一日早く仕事を頼んでいたら、一日早くばれ[#「ばれ」に傍点]ちゃったわけですものね」  新宿行きのリムジンバスが停留所に入ってきて、俺たちは揃って壁から背中を離し、肩を並べてそのリムジン乗り場に歩いていった。 「久保田社長が沖縄から帰ってきたら、一騒動起こるんだろうな」 「大丈夫だと思います。あと始末は清野さんがやることになってます」 「あいつも、ぐる[#「ぐる」に傍点]だったのか」 「ここで騒いだらスキャンダルになるし、そうしたら本当にスイング・ジャパンは倒産です。若いタレントを育てるのに力を貸すからって、彼は社長を説得するはずです。彼、見かけによらず人間はできているんです」  なんとなく複雑な気分だったが、とにかくリムジンには一緒に乗り込み、一番うしろの席に、俺たちは躰を離して腰をおろした。若宮由布子の眼鏡が曇って、奇麗な顔が一瞬漫画になったが、俺は笑う気にはならなかった。 「その、なあ……」と、若宮由布子の顎《あご》の先に、一つだけできた生意気そうなニキビを、妙に緊張して眺めながら、俺が言った。「クリスマスイブの夜、君とのデートをキャンセルしたのは、清野だったのか」 「あれは葵ちゃんです。どうしてですか」 「いや……」 「あの夜、葵ちゃんを英美さんのホテルに連れていく予定でした。でも柚木さんがへんなところに出てきて、予定を変えたんです」 「へんなところへ、な」 「この三日間、柚木さんにはみんなが苦労させられました」 「君と清野とは、その、どういう関係なんだ?」 「知りたいですか」 「無理に知りたいとは、思わないが」 「でも知りたいでしょう?」 「新宿につくまで時間がある。暇だから、まあ、聞いてやってもいい」  若宮由布子が、正面を向いたまま不遜な笑い方をし、躰を前に倒して、眼鏡の顔を恥ずかしくなるほど俺の顔に近づけた。 「柚木さんの洋服のセンス、なんとなく、おかしいなあ」 「なんのことだ?」 「だから洋服ですよ」 「これは、君が買ってよこしたセーターだ」 「セーターはいいんです。マフラーもいいです。でもセーターとマフラー、配色がばらばらです」 「その……」 「従兄弟《いとこ》ですよ」 「ん?」 「清野さん。彼、わたしの従兄弟です。柚木さんもそこまでは気がつかなかったでしょう」  そのとき俺の頭に、また沢井英美のあの歌が甦《よみがえ》って、口の中で小さく、俺は二度ほどそのフレイズをくり返した。 『仕方ないことをいくら真剣に考えても、やっぱりそれは仕方ないことなのよ』  昨日まではどうしても思い出せなかった歌のタイトルも、その瞬間、俺は完全に思い出していた。タイトルは『別な場所で生きてみたい』だった。  なにを考えているのか、眼鏡の向こうで大きく目を見開いた若宮由布子の顔を眺めながら、少なくとも今だけは別な場所なんかで生きたくないと、俺はけっこう本気で思っていた。少なくともこのリムジンバスが、新宿につくまでは。 [#改丁] [#ここから4字下げ] 光の憂鬱 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] [#ここから5字下げ] 1 [#ここで字下げ終わり]  世間はゴールデンウィークだというのに、俺《おれ》は仕事机にへばり付いて、しらけた顔で欠伸《あくび》をつづける原稿用紙に切ないラブコールを送っている。夜中の十二時で、本来なら歌舞伎町《かぶきちょう》か二丁目あたりで尻と頭の軽そうな女の子を口説《くど》いている時間なのだ。俺が主義を変えて仕事の鬼になったのかといえば、そういうことではなく、前の月に遊んだつけが銀行口座と原稿の締切り日に数字となって表れたという、それだけのことなのだが。  今手を焼いているのは、十八歳の少年が強盗に押し入った先の家族四人を包丁で刺し殺した事件で、その背景記事をあと三日間で仕上げなくてはならないのだ。背景なんていくら掘り起こしても、遺伝子と家庭環境と社会環境のバリエーションでしかないのだが、『頭の中で神が四人を殺せと命令した』という結論では誰も俺の銀行口座に原稿料を振り込んでくれない。個人の罪は個人の罪として攻撃し、そこに家庭環境やら地球環境やらを放り込んでなんとかレポートの体裁を整える。面白い仕事でも意義のある仕事でもないが、それをやっつけなければ俺の生活が成り立たない。仕事に文句を言うのは人生に文句を言うようなもので、実際俺は、生まれてから三十八年間ずっと自分の人生に文句を言いつづけている。  悪魔でもなんでもいいから、俺の人格にとり憑いて原稿用紙を埋めてくれないかと願い始めたとき、電話が鳴って、出てみるとまさしく、相手は悪魔の使いである出版社の石田《いしだ》貢一《こういち》だった。 「やあ柚木《ゆずき》さん、仕事のほうは捗《はかど》っていますかね」と、電話の回線をちりちり鳴らしながら、妙にのんびりした声で、石田が言った。 「捗っていればこんな時間に、部屋でくすぶっちゃいないさ」と、机の下でスリッパを揺すりながら、俺が答えた。 「締切りまであと三日ですから、せいぜい頑張って下さいよ」 「家族を連れて、沖縄に行くんじゃなかったか」 「もう来ていますよ。女房が寝たんで、夜の海を眺《なが》めながら寝酒を始めたところです。海を見ていたら柚木さんのことが心配になりましてね。東京に戻ったら原稿が上がってないなんて、まさか、そんなことはないですよねえ」 「沖縄から電話してくるほど、俺は信用されていないのか」 「信用できれば今ごろはハワイに行ってますよ。で、どうなんです? 原稿は大丈夫なんでしょうね」 「寝酒でも魚釣りでもスキューバダイビングでも、好きなもので遊んでくれ。おまえさんを沖縄で休ませるために、俺は酒も飲まないで仕事をしている。帰ってきたら原稿料を上げるように、編集長にかけ合ってもらいたいもんだな」 「原稿が出来あがっていて、内容にも手抜きがなければ努力してみますよ。実際問題、どれぐらい進んでるんです?」 「最終章をまとめれば終わりだ。沖縄まで行って仕事のことを考えるな。女房子供にサービスしないと、俺みたいな人生をやることになる」 「柚木さんみたいな人生ねえ、なんだかね、一人で海を見てると、それもいいような気になってくるんですよ。海っていうのはどうも、人間を感傷的にするんですかねえ」 「おまえを感傷的にしているのは海じゃなくて、酒さ。寝酒はほどほどにして、女房が待っているベッドに戻ってやれ。原稿は間ちがいなく仕上げる。沖縄から催促されなくても、締切りぐらい守るさ。おまえの湿気っぽい声を聞くとやる気がめげるんだ。俺に仕事をさせたかったら、早く電話を切ってベッドに入ってくれ」 「薄情ですねえ。分かりましたよ。電話で海の音を聞かせてやろうと思ったのにねえ。あたしは勝手に一人で寝酒をつづけます。原稿は頼みましたよ。枚数の辻褄を合わせるだけじゃなく、内容のほうもきっちりやって下さい。昔の義理があるから仕事を回してますが、この業界では柚木さんは新顔なんですからね。締切りに遅れるたびに編集長から怒鳴られるのはあたしなんです。東京に戻ったとき原稿が揃っていなかったら、次の仕事は考えさせてもらいます。あたしだってこんな時間に、好きで沖縄から電話してるんじゃないんですよ」 「なんだか知らないが、石田、おまえ、酔っぱらっているのか」 「酔っぱらってますよ。酒を飲んで酔っぱらわなかったら、なんのために飲むんですか」 「どうでもいいけどな。女房子供のために、深酒は慎め。仕事は心配しなくていい。枚数だけじゃなく、内容もおまえの顔をつぶさないように頑張ってやる。つべこべ言わずに早く寝て、明日もせいぜいゴールデンウィークを楽しんでくれ」  石田がまだなにか言いたそうだったが、俺は電話を切り、椅子を机から遠くずらして、頭の中で舌打ちをした。警察を辞めたときもう少し考えればよかったものを、なにを好きこのんで、こんな因果な商売を選んでしまったのか。最終章をまとめれば原稿はたしかに仕上がるが、俺はまだ最初の一章も書き終わっていないのだ。  煙草に火をつけたとたん、また電話が鳴ったが、石田もそこまでの度胸はないはずだし、他には夜中に電話をしてくる相手も思い浮かばなかった。 「あーら草平《そうへい》ちゃん、元気でやってるの? お見限りじゃないのよ。ちっとも顔を見せないから、あたし、てっきり死んでるかと思ったわよ」 「心配してくれるのは嬉しいが、ええと、誰《だれ》だっけな」 「誰だっけもないでしょう? あたしよ、武藤《むとう》。『クロコダイル』の武藤|健太郎《けんたろう》よ。あたしの声を忘れるなんて、草平ちゃんも冷たいわねえ」  言われて思い出したが、この声は二丁目にあるスナックのマスターで、嘘か本当か、俺が顔を出すたびに『夜明けのコーヒーを一緒に飲もう』と迫ってくる。適当に柏手をしているが、目付きが妙に真剣なときがあって、ここ一ヵ月ほど俺の足はクロコダイルから遠ざかっている。深く自分の体質を分析してみたことはないが、俺には、まあ、そっちのほうの趣味はない。 「草平ちゃんがこの時間に部屋にいるって、もしかして、女でも連れ込んでいるわけ?」 「俺がこの時間に部屋にいるのは、仕事をしているからさ。できれば今すぐ出かけていって、マスターの顔を見たいもんだ」 「泣かせてくれるわねえ。心は冷たいのに口だけは優しいのよね。女って男のそういう部分に弱いのよ」 「考え方の問題だが、その……なにか用なのか」 「あら、用がなければ電話しちゃいけないの?」 「そういうわけじゃないが、俺も、忙しくてな」 「草平ちゃんが冷たいのには慣れてるわよ。どうせ今は尻の青い女子大生でも追いかけてるんでしょう? それでうちの店にはお見限りだったのよね」 「なあマスター、俺があと三日でなん枚の原稿を書くか、教えてやろうか」 「知りたくないわよ。男が仕事をするのは当たり前じゃないの。言い訳なんかしてないで、ちょっと店に顔を出してくれない? 草平ちゃんに会いたいという人が来てるの」 「俺に会いたいって、マスター以外でか」 「あたしが頼んだって来てくれないでしょう? それぐらい分かってるわよ。草平ちゃんに用があるのは和実《かずみ》ちゃんていう子。いつだったかカウンターで隣になって、草平ちゃんも口説いでいたじゃない」 「和実ちゃんていうのは、女なのか」 「決まってるわよ。女で健太郎なんて名前の子がいたら、顔を見に行ってやるわよ」 「和実ちゃんの気持ちは嬉しいんだが、正直に言って、今、本当に忙しいんだ」 「お酒を飲む暇もないほど忙しい仕事なんて、聞いたこともないわ。そんなこと言ってるから女房に逃げられるのよ。それにね、和実ちゃんの用事ってベッドの話じゃないの。草平ちゃんの専門の分野。込み入ってて電話じゃ話せないの。ちょっとでいいから顔を出してやってよ。この前口説いた義理だってあるじゃない」  俺の専門分野は刑事事件で、たしかにベッドではないが、ベッドではないと気軽に決めつけられるのも、けっこう心外なものだ。だいいち俺には和実ちゃんという女の子に覚えはないし、口説いた覚えもない。 「なあマスター、和実ちゃんて、可愛いのか」 「悔しいけどあたし、草平ちゃんの好みぐらい分かってるつもりよ」 「歳は、いくつぐらいだ?」 「知らないわよ。自分で訊《き》けばいいじゃない。和実ちゃんはわざわざ草平ちゃんに会いに来たの。話が込み入ってるらしくて、電話じゃ言えないらしいのよ」  世間はゴールデンウィークでもあることだし、原稿に行きづまっていることでもあるし、気分転換に二丁目まで出かけていったとしても、他人に文句を言われる筋合いはない。和実ちゃんも俺の好みの女の子だというし、そういう誘いを断ったのでは、女房子供と別居してまで一人で生きている意味がない。軽く散歩に出て、軽く和実ちゃんの話を聞いて、軽くウイスキーを飲んで、仕事はまたそれから始めればいい。原稿の締切りは迫っているが、時間はあと三日もある。三日も[#「も」に傍点]あるか三日しか[#「しか」に傍点]ないかは、すべては考え方と才能の問題なのだ。 「ねえ草平ちゃん、出ていらっしゃいよ。仕事なんかどうにでもなるわよ、原稿なんかあたしが書いてあげるわよ。こう見えてもあたし、昔大蔵映画でポルノの脚本を書いていたんだから」  武藤に殺人事件のレポートを書かせるのも、かなりの名案だが、幻想は捨て、俺は「出かける」と返事をして電話を切った。煙草を灰皿でつぶしながら考えてみたが、和実ちゃんの顔はやはり思い出さなかった。ベッド以外の問題でわざわざ俺に会いに来るというのは、いったい、どんな用事なのだろう。 [#ここから5字下げ] * [#ここで字下げ終わり]  丸ノ内線の最終は残っているし、四谷から新宿の二丁目ぐらいタクシーでもいいのだが、帰りの都合を考えて、俺はマンションの階段下から自転車を乗り出した。冬の間は跨がる気にならなかった自転車も、空気がここまで暖かくなれば、ジョギングがわりにちょうどいい。いつか新しい自転車を買って東京大縦断をやってみたいとも思うが、この不健康な生活をいつまで躰《からだ》と神経が我慢してくれるか。  新宿通りの歩道を四谷四丁目で右に曲がり、靖国通りとの中間の道を新宿方向に向かって、二丁目の『クロコダイル』まで、自転車を漕いだのは十五分だった。タクシーでもそれぐらいの時間はかかったろうし、それにタクシーと自転車では、俺の健康と地球の環境に正反対の影響を及ぼしてしまう。十五分間だけ健康と環境問題を考え、しかし次の瞬間には、俺は呆気《あっけ》なく煙草と酒の世界に入っていく。  ゴールデンウィークのまっ最中で、クロコダイルに他の客はなく、マスターの武藤と髪をワンレングスにした知らない女の子が、カウンターの内と外でのんびり酒を飲んでいた。いつも職業の分からない若い連中がたむろしている店だが、こういうしらけた風景も、佗《わび》しくてなかなかいいものだ。 「分かっていたわよ。可愛い女の子だって言えば飛んでくるのよね。あたし、草平ちゃんの奥さんに同情しちゃうわ」 「女房は俺に同情している。そのうち俺は、道端で知らない女に刺し殺される運命だそうだ」 「殺せるならあたしが殺してやるわよ。悪い男だと分かっているのに、惚《ほ》れた弱みって困ったものだわ……ねえ草平ちゃん、この子が電話で言った和実ちゃん。覚えているでしょう?」  和実ちゃんという子が、となりに座った俺に肩をすくめて会釈をし、俺はマスターから水割りのグラスを受け取って、ウイスキーをなめながらその頬骨《ほおばね》の張った横顔をしみじみと観察した。歳は三十になっているかどうか、白めのファンデーションに眉を太く描き、厚い唇にはワインレッドの口紅を恐縮するほど濃く塗りつけていた。街では目を引く顔立ちかも知れないが、化粧を落としたあとの顔まで見たいと思う女では、決してなかった。本当に口説いたことがあるというなら、そのとき俺は、よっぽど泥酔していたのだろう。 「友達のことで柚木さんに相談したくて、マスターに無理を言っちゃった」と、グラスの縁から横目で俺の顔を覗きながら、馴れなれしく口をとがらせて、和実ちゃんが言った。「柚木さん昔、刑事をやっていたのよね」 「俺にとって、三年前は、たしかに昔だ」と、四谷からのこのこ自転車を走らせてきた自分に、腹の底から愛想《あいそ》を尽かしながら、俺が答えた。「和実ちゃん、苗字はなんだっけな。歳を取るともの覚えが悪くなるんだ」 「豊岡《とよおか》。去年の暮にこのお店で名刺を交換したじゃない」 「グラフィックデザイナーの、豊岡さん、か」 「勤めは化粧品会社の企画部。グラフィックデザイナーはもう一人の女の子。ほら、柚木さんと二人で『男と女のラブコール』をデュエットしたでしょう」 「そういえば、そうか。去年の暮、忘年会の帰りに一人で飲みに来たときの、あの子か」  本当言うと俺は、名刺を交換したことも『男と女のラブコール』をデュエットしたことも覚えてはいないが、相手が覚えていると言うのなら、それはそれでいい。ポケットの中に知らない人間の名刺が入っているぐらい、よくあることで、自慢《じまん》ではないが俺はそういう問題には拘《こだわ》らないで酒を飲んでいる。 「それで、話は友達のことだったっけな」と、頭の中でもう帰り支度を始めながら、武藤が差し出したピーナツを口に放り込んで、俺が言った。 「そうなの。その友達って、自由が丘でHMGのお店をやってる人なんだけどね、旦那様から突然手紙が届いたの。わたし、柚木さんのことを思い出して、相談してみるからって言ってやったのよ」 「ええと、HMGって?」 「ハンド・メイド・グッズのこと。お店の品物が手作りなのね。わたしなんかシャンプーも石鹸もそこの製品を使ってるのよ。ここだけの話、うちの会社で出している石鹸なんかより、美容のためにはずっといいの」 「なるほどな。HMGの店をやっているのは女の人で、結婚をしていて、事情があって旦那が遠くにいて、その旦那から手紙が来たというわけだ」 「さすが元刑事だわ。友達が女の人だなんて、わたし、言わなかったものね」 「まあ……」 「彼女もどうしていいか分からないらしいの。手紙にはね、警察には知らせるなと書いてあったって」  そこまでのところは、半分うわの空で聞いていたのだが、『警察には知らせるな』という一言が俺の好奇心にいやな電気を走らせた。警察を辞めてから三年もたつのに、事件の匂《にお》いが鼻をかすめただけで、無条件に緊張してしまう。 「まさか、旦那という人が、誘拐されたわけではないんだろう」 「そういうことではないらしいの。彼女は死んだと思っていたらしいのね。死んだと思っていた旦那様から手紙が来たんだから、びっくりしたわけよ」 「死んだと思っていた、旦那?」 「三年ぐらい前らしいわ。わたしも鯨《くじら》ハウスに行くようになって二年だから、当時のことは知らないの」  和実ちゃんに、問題を具体的に説明する意思があるのか、かなり疑問だったが、どうやら鯨ハウスというのが自由が丘にある店の名前で、その経営者の旦那が三年前に失踪かなにかしていた、ということを言っているらしい。元刑事でなくても、それぐらい俺だって欠伸のついでに理解できる。 「旦那というのは、つまり、三年前からなにかの事情で姿を消していた。それは奥さんでも死んだと思うほどの事情だった……そういうことだな」 「旦那様って、木曾の駒《こま》ケ岳《たけ》で行方不明になってね、捜索隊を出したけど見つからなかったらしいの。三年も連絡がなければ、誰だって死んだと思うんじゃない?」 「木曾駒で行方不明になって、三年、な」 「それで突然手紙が来たんだもの、セイ子さんだって困ってしまうわよ。手紙は本物らしいけど、それならそれで、事情をはっきりさせたいと思うものよ」  軽く一杯だけ飲むつもりだったものが、話の複雑さに、グラスを空けて、俺は思わず水割りを追加してしまった。セイ子さんというのが鯨ハウスの経営者らしいし、話も複雑で面白そうではあるが、しかしだからといって、俺にどうしろというのだ。 「死んだと思った亭主が生きていたんなら、それはそれで、いいじゃないか」と、新しい水割りに口をつけ、ポマードで撫《な》でつけた武藤の薄い髪を横目で眺めながら、俺が言った。 「でもそれなら、電話をしてくるとか、今どこにいるとか、もう少しはっきり連絡するべきじゃない? ただ生きてるって手紙をよこしただけじゃ、話はかえって面倒になるわよ」 「旦那には奥さんにも話せない事情があったということさ」 「セイ子さんにはね、まるで心当たりはないってよ」 「一緒に暮らしていても、相手のことは分からないもんだ。夫婦なんて、そういうもんだ」 「厭《いや》ねえ。女房に逃げられた男って、すぐニヒルに気取るのよね」と、ウイスキーの棚に寄りかかり、へんに確信したようにうなずきながら、武藤が言った。「でもそれは草平ちゃんたち夫婦のことでしょう? 世の中には心から愛し合っている男と女が、いくらだっているもんだわよ」 「一般論として、言っただけさ」 「草平ちゃんの一般論なんか通用しないわよ。セイ子さんだっけ? その人が本当にご主人を愛していて、旦那様が突然姿を消す理由に心当たりがないって言うんなら、素直に信じればいいじゃないのよ。ああ厭だ。あんたみたいにひねくれた男が、どうして女に持てるのかしらねえ」 「マスターな、俺は人格を非難されるために自転車を飛ばしてきたんじゃない。今はセイ子さんとかいう人のことに話題を集中してくれ」 「だからそのことを言ってるのよ。どう考えたっておかしいじゃない。そりゃあね、世間には家に帰りたくない亭主族はたくさんいるわよ。だからってわざわざ駒ケ岳まで行って姿を消す? 奥さんと別れたいと思ったら、手紙なんか出さなければいいじゃない。それに無事を報らせるなら報らせるで、もう少し方法はあるじゃないのよ」 「俺に言っても仕方ない。旦那には旦那の、都合があるんだろう」 「それじゃ奥さんはどうするのよ。男って勝手だわよ。自分の都合だけで女の立場を考えないんだもの。セイ子さんの気持ち、草平ちゃんには分からないの? 旦那様が山で遭難したときなんか、そりゃあ心配だったはずよ。捜索が進んで、発見されなくて、もしかしたら死んでるのかなって思って、それでも諦められなくて、いやぜったい生きてると自分に言い聞かせて、時間がたつうちにどうにか覚悟ができてきて、最近やっと一人で生きていく決心がついたんじゃないのよ。ここまで来るのに三年もかかってるのよ。それを突然『おい、俺は生きてるぞ』なんて言ってきて、勝手にも程があるじゃない。いくら事情があるのか知らないけど、あたしならそんな男、ぜったい許さないわよ」  武藤が昔ポルノの脚本を書いていたというのも、まんざら嘘ではないらしかったが、それではその夫婦の問題に他人がどう介入するのかとなると、話は事件以上に面倒になる。警察に駆け込んでも交番に失踪人の手配書が回るぐらいで、捜査なんかしてくれるはずはないし、探されたくない人間を無理に探し出したところで、問題はなにも解決しないのだ。もし帰れるものなら、亭主だって勝手に帰ってきている。 「難しい問題だとは思うが、俺には、どうすることもできないな」と、グラスをカウンターに置き、和実ちゃんの濃い化粧の下に素顔を想像しながら、煙草に火をつけて、俺が言った。 「相談に乗ってくれないかなあ。セイ子さん、こういうことで頼りになる人、誰もいないんだって」 「こんなことで頼りになる人間なんて、誰だって、誰もいないだろうな」 「弁護士には相談したのよね。そうしたら興信所を使って旦那様を探してみろって、そう言われたらしい」 「普通に考えれば、そんなところだ」 「でもセイ子さん、興信所は嫌いなのよ。昔お見合い話があったとき興信所に調べられて、厭な思いをしたらしいの。それに興信所じゃ、旦那様を見つけたあとのことまで面倒は見てくれないものね」 「俺に亭主を探させて、あと始末までやれということか」 「元刑事ならそれぐらい出来るんじゃない?」  俺は頭の中で、自分でも意味不明なため息をついてしまったが、世界をそんなふうに軽く考えられる女というのは、生きていても毎日が楽しくて仕方ないだろう。武藤がどういう根拠で『俺の好みは分かっている』と言ったのかは知らないが、もう少し酒が回っていれば、俺は声に出して反論してやるところだ。 「残念だけど、俺の専門は刑事事件でな。それに今は急ぎの仕事があって、知らない夫婦の問題に首を突っ込んでいる暇はないんだ」 「そこを頼みたいと思って電話してもらったのよ。アルバイトで私立探偵もやってるんでしょう?」 「それは、事件と、相手によりけりだ」 「セイ子さんからも頼まれたのよ。柚木さんのことを話したら、お金はいくらかかっても構わないって」 「金……は?」 「だってこのまま、何もしないわけにはいかないしね」 「何もしないわけには、たしかに、いかないだろうな」 「とにかくセイ子さんに会ってくれない? 店は自由が丘の駅のそばなの。名刺を預かっているから渡しておくわ」  和実ちゃんが向こう側に肩を捻り、丸椅子に置いてあったハンドバッグを取りあげて、白い名刺を抜いて俺に渡してよこした。名刺には『鯨《くじら》ハウス・外村《とむら》世伊子《せいこ》』と印刷してあって、左下には自由が丘の住所と電話番号が書かれていた。俺が感動したのは名刺の名前でも、鯨ハウスのネーミングでもなく、和実ちゃんが言った『金はいくらかかっても構わない』という宣言のほうだった。あれほど気が進まなかったのに、札束の幻影が頭をよぎったとたん信念が動揺するというのも、なんとも困った体質だ。 「草平ちゃん、あたしからもお願いするわよ」と、癖のあるだみ声を鼻にかけながら、色っぽい目で俺の顔を覗き込んで、武藤が言った。「どんな事情があるか知らないけど、女を泣かせる男なんて人間のくずだわよ。その旦那が見つかったら、あたし、ぜったい文句を言ってやるんだから」 「仕事もあるし、まあ、考えてはみる」 「和実ちゃんの立場だってあるしね。あたしの顔だって立ててもらいたいわよ」 「今の原稿次第、ということだな。和実ちゃん、この鯨ハウスって、はやっているのか」 「お店は小さいけど、雑誌でもよく取り上げられるわね」 「雑誌で取り上げられれば、客も多い、か」 「世伊子さんは趣味でやってるの。もともとお金持ちの一人娘なのよ。あの辺りにマンションをいくつか持ってて、わたしが借りている部屋の大家さんなわけよ」 「マンションを……そうか、そいつは、よかった」 「引き受けてくれる?」 「約束はできないが、和実ちゃんの顔とマスターの顔は、立てたい気もする」 「とにかく会いに行ってみてよ。世伊子さんも安心すると思うわ。旦那様が見つかったら部屋代を下げてもらえるの。世伊子さんにもわたしにも柚木さんにも、みんなにいい話ということよね」  どういう展開でこうなったのか、分析はしたくなかったが、和実ちゃんの部屋代が下がって、俺の財布が一息ついて、世伊子さんの旦那が見つかって世伊子さんが幸せになれば、たしかにみんなにとっていい話には違いない。かんたんに解決しそうもない予感はあるが、亭主が三年間も姿を消していたり、突然手紙をよこしたり、この事件は最初から話が込み入っているのだ。俺が首を突っ込んだからってこれ以上面倒になる心配はないし、なによりも世伊子さんの経歴が素晴らしい。金持ちの一人娘で、手作り製品の店を経営していて、自由が丘にいくつかのマンションを持っている。俺も罪の意識に目をつぶって、力一杯調査料を請求できる。 「草平ちゃんが仕事を引き受ければ、ついでにあたしも幸せになっちゃうわよ」と、ウイスキーのグラスを目の高さにあげ、俺と和実ちゃんに一度ずつ乾杯の合図をしてから、こけた頬でにやっと笑って、武藤が言った。「惚れた弱みがあるから言いたくないけど、草平ちゃんのお勘定、だいぶ溜まっているのよねえ」 [#ここから5字下げ] 2 [#ここで字下げ終わり]  五月の三日がなんの日だか思い出せないが、カレンダーには赤丸がついていて、なにかの祭日であることは間ちがいないらしい。刑事だったころも曜日には無関係な生活をやっていて、辞めてからも相変わらず世間のサイクルとは馴染まない人生を送っている。家庭があったころは、それでも子供が学校にあがったり女房が隣の奥さんと喧嘩をしたり、節目のようなものもあった気もするが、今は街を歩く女の子の服装に季節の変化を感じる程度のことでしかない。侘しいと言えば佗しいが、他人と暮らしても本質的な佗しさが誤魔化《ごまか》せるわけでもなし、孤独なんて糖尿病と同じで、そういう自分の体質として我慢するより方法はないのだ。孤独さえ我慢できれば、人は人生の無意味さも、死ぬまで我慢できる。  意味もなく天気がよくて、洗濯をしたり布団を干したり、冷蔵庫の中を片づけたりコーヒーを沸かしたりしながら、なんとか原稿に取り組んでいたが、集中力がつづかず、俺は半分自棄を起こして自由が丘まで出かけてみることにした。天気がよくても仕事は捗らないし、雨が降ったら降ったで、また気分が重くなる。贅沢を言えた柄ではないが、俺の希望は、いつかは南の島に渡って一生魚釣りをして暮らすことなのだ。  JRと東横線を乗り継いで自由が丘の駅に着いたのは、ラッシュの始まっていない夕方の四時だった。高校生たちの喧噪がないことに神経が物足りなさを感じたが、そんな刺激を期待すること自体、歳を取ったことの証拠なのだろう。ほんのなん年か前まで、子供だの高校生だの、俺はジンマシンが出るほど嫌いだったはずなのに。  駅前の交番で教えてもらった『鯨ハウス』は、欅《けやき》の街路樹が東西につづく、駅の東側の閑静な一画にあった。媚を売らないブティックやコーヒーショップが倣慢に点在し、場違いな人間は締め出そうと決めているような、なにか排他的な風景をつくっていた。青い化粧タイルで外装を飾った鯨ハウスも、想像していた雑貨屋ではなく、暇と金のある人間が暇と金を無駄遣いするために立ち寄るだけの、サロン的なディスプレイだった。  壁に縫いぐるみを並べた細長い店の奥には、二人の女が木の椅子に座っていて、そのうちの一人が商品や家具の間をゆっくりと俺のほうに近づいてきた。女はレンガ色のミニスカートに、白いストッキングを穿き、襟の尖った白いブラウスの上にはスカートと同色の丈の短いベストを羽織っていた。とっさには信じられなかったが、俺の顔を見つめる目の表情から、どうやらその女が外村世伊子らしかった。 「電話をした、柚木です」と、女の落ち着いた華やかさに、自分でも呆れるほど緊張しながら、どうにか肩の力を抜いて、俺が言った。 「お待ちしていましたわ。無理なお願いをして、申しわけございません。なにしろこういうことに、慣れていないもんですから」  外村世伊子がこういうこと[#「こういうこと」に傍点]に慣れていないのは当然で、そして俺も外相世伊子のように癖のない清潔な笑顔の女には、まったく慣れていなかった。歳も三十を過ぎてはいるのだろうが、ミニスカートの脚に崩れはなく、鼻の形や顎の線も上品で、これで大金持ちの一人娘だというのだから、世の中はずいぶん不公平にできているものだ。  外村世伊子が俺に目で合図をし、店の奥に歩いて若い女になにか言い、空色のビニールバッグを肩にかけてまた俺の前に戻ってきた。場所を変える意思であることは分かっていたので、黙ってドアを開け、俺たちは欅並木の通りに出た。ピンク色のローヒールの割りに背が高く、並んで歩くと肩の線は俺と同じぐらいだった。他人事ではあるが、亭主に、こんな女を残して行方をくらまさなくてはならない、いったいどんな事情があるというのか。  外村世伊子が俺を連れていったのは、鯨ハウスから百メートルほど離れた漆喰塗りの喫茶店で、俺たちはコーナーで隠れた窓際の席に座り、それぞれにレモンティーを注文した。向かい合って座ると恥ずかしくて逃げ出したくなるほどいい女だったが、まさか亭主も同じ理由で雲隠れしたわけではあるまい。  名刺を渡し、相手に断ってから、煙草に火をつけて、俺が言った。 「最初に断っておきますが、今日は話をうかがいに来ただけです。仕事を引き受けると決めているわけではありません」 「専門の方に話を聞いていただけるだけでも助かりますの。ふだんは警察関係に知り合いが欲しいとは思わないのに、人間なんて、勝手なものですわね」 「警察とかやくざとかは、できれば、無縁に生きたいもんです。ご主人からの手紙は、お持ちですか」  外村世伊子が空色のバッグから白い封筒を取り出し、ウエイトレスがレモンティーを置いていくのを待って、テーブル越しに手渡してよこした。封筒は市販の定形物で、表には角張った大きい文字で外村世伊子の住所と名前が書かれていた。住所は鯨ハウスのある目黒区自由が丘ではなく、となりの世田谷区奥沢だった。裏には差出人の住所氏名はなく、スタンプの日付けは四月二十日で、取り扱い郵便局は東京の芝局だった。木曾の駒ケ岳というのは長野のはずだから、この旦那は三年かかってやっと長野から東京まで帰ってきたことになる。  封筒の中に入っていたのも、四つ折りにした変哲のない白い便箋で、そこには表書きと同じ角張った文字でたった六行の文章が書かれていた。 『世伊子様。心配をおかけして、申しわけない。事情があって家に帰れないでいる。そのうちすべてを話せるときが来ると思う。今は僕を探さないで下さい。それから、警察には知らせないように。お体、お気をつけください。峰夫《みねお》』  俺は五分ほど、煙草を吹かしながらその文字を眺めていたが、突然不愉快になって、便箋と封筒をテーブルの隅に放り出した。文字の姿にも文章にも、書いた人間の心の揺れが、どこにも感じられない。受け取った人間の気持ちに対する配慮が気配にも感じられないのだ。こんな文章ならアメリカ製のコンピュータにだって書ける。 「峰夫というのが、ご主人の名前ですね」と、レモンティーをすすり、外村世伊子がうなずくのを確かめてから、新しい煙草に火をつけて、俺が言った。「手紙がご主人からのものであることは、間ちがいないでしょうか」 「間ちがいないと思います。主人はよく旅行をする人で、旅先から絵葉書を書いてくれました。文字を比べてみると、同じものでした」 「ご主人の、職業は?」 「フリーのカメラマンです。変わった人で、昆虫とか植物とか動物とか、そういう方面が専門でしたわ。売れているカメラマンとは、言えませんけど」 「初対面の人間に立ち入ったことを訊かれるのは、面白くないでしょうね」 「覚悟はしています。病院に行けばお小水だって取られますし、お医者様の前では服も脱がなくてはなりませんわ」 「まあ、それも、そうです」 「たとえがいけませんでした?」 「うしろから頭を殴られたようで、ちょっと、目眩《めまい》がします」 「気を使っていただかなくても結構ですのよ。恥ずかしがってみても、仕方のないことは仕方ないですものね」  外村世伊子がどういう育ち方をしているのか知らないが、生まれたときから価値観に余裕があって、意味のない拘りはいつでも捨てられる優雅さを身につけているのだろう。視線がずれると嫌味な性格になる可能性はあるが、口調にも表情にも、他人を不愉快にさせる要素は憎らしいほど見当たらなかった。 「豊岡和実さんから聞いた限りでは、ご主人の失踪について、心当たりはないということでしたが」 「正直に言って、本当に心当たりはありませんの。手紙が届くまでは失踪だなんて、思ってもおりませんでした」 「すでに、死んでいると?」 「そう考えるより仕方ありませんでした。三年前、主人はいつものように写真を撮りに出かけました。出版社に頼まれてイワヒバリの写真を撮るとか、そんなことだったと思います」 「イワヒバリというのは、鳥の名前か、なにか」 「そうだと思います。わたくしは、その方面には詳しくありませんの」 「イワヒバリの写真を撮りに駒ケ岳に登って、遭難したということですか」 「予定の日を二日も過ぎて、主人が帰らなくて、わたくし、山岳会の方に連絡してみました。その方が現地に飛んで下さって、主人が駒ケ岳に登ったまま下山していないことを確認してくれました。それから山岳会の方と地元の方々が捜索隊を出してくれましたけど、発見されたのはテントと寝袋だけで、主人は、見つかりませんでした」 「その後三年間、ご主人らしい遺体は、発見されていない?」 「崖《がけ》崩れかなにかで、埋まったままだとか、そういうことだと思っていましたわ」 「三年前というのは、正確には、いつ頃のことですか」 「来月の十日でちょうど三年になります」 「冬山では、なかったわけですね」 「軽装備になるぶん、夏山のほうが、遭難すると危険も大きいということでしたわね」 「ご主人は、駒ケ岳には、一人で?」 「写真を撮るときはいつも一人でした。駒ケ岳への入山記録にも、一人で登ったことが書いてありました」  三年前の六月十日に、外村峰夫は下山予定日になっても帰らず、捜索隊が発見したのはテントと寝袋だけで、それ以降遺体も出てきていない。どう考えても一般的な単純遭難で、この三年間で外村世伊子が亭主の死を確信するようになったのも、無理のない心境だろう。手紙さえなければ死亡したものとして離婚の提訴もできるし、気持ちの整理をつけて、新しい生活にも入っていける。いったいなにを考えて外村峰夫は姿を消し、そして三年たった今、なにを考えて自分が生きていることを世伊子に連絡してきたのか。 「覚悟をしているということなので、率直に訊きますが、あなたとご主人の仲は、いかがでした?」 「主人がこういう手段で姿を消すほど、仲が悪かったか、ですわね」 「念のためです」 「主人がどう考えていたか、心の深い部分までは分かりませんわ。でもわたしたち、お互いを信頼しあっていましたし、人生のパートナーとしても気が合っていたと思います。主人はお金や出世には無関心な人で、そういうところに、わたくしも魅かれていました」 「売れている写真家ではなかったということは、金銭的な負担は、あなたのほうに?」 「そういうことになりますけど、カメラの機材にお金がかかるぐらいで、贅沢な人ではありませんでしたわ。テントと寝袋があればどこでも暮らせるような人でした」 「政治的な団体に関係していた可能性は、ありますか」 「思い当たりませんわねえ。『雫《しずく》の会』という山岳クラブに所属していましたけど、あの会は純粋な山岳同好会だと思います」 「自然保護団体とか、環境問題を研究する会だとかには?」 「お友だちでは活動している方もいらっしゃるでしょうけど、主人は一人で自然の写真を撮って歩くことを好みました。テントと寝袋だけで生きていける人でしたから、遭難から一ヵ月ほどは、わたくし、必ず生きていると信じていましたけど」  テントと寝袋さえあればどこでも暮らせて、物質的な贅沢に関心がなく、社会の煩わしさを拒否して、ひたすら好きな植物や動物の写真を撮りつづける。そういう生き方が一つの理想として俺の中にも無くはないが、現実には、俺は東京の埃にまみれて夜の街をうろつく生活を死ぬまで捨てることはできない。外村世伊子のような、東京の風景そのものであるような女が、自分とは対照の位置にある亭主の価値観に単純な憧れを持ったとしても、それはそれで、理解できないこともない。 「一つ聞いておきたいのですが……」と、外村世伊子の生活感のない華奢《きゃしゃ》な指を眺めながら、紅茶をすすり、新しい煙草に火をつけて、俺が言った。「ご主人が見つかった場合、あなたとしては、どうするおつもりですか」 「自分でも、それが、分かりませんの」と、ミニスカートの長い脚を揃えて、横に流し、胸の前で軽く腕を組みながら、外村世伊子が言った。「主人は死んだものと、やっと諦めがついたところでした。もう一度生活をやり直すには、わたくしの中の不信感が大きすぎる気もいたします。主人が戻れないというなら、戻れない事情はあるんでしょう。でも、わたくしとしては、何もしないで待っている気にはなりません。結論を出さなくてはいけないと思いますの。主人と暮らした三年間はなんであったのか。主人にとってわたくしが、なんであったのか。とにかく、曖昧《あいまい》なまま生きていくわけにはいきませんわ。覚悟はしております。ですからこのお仕事、どうしても、柚木さんに引き受けていただきたいの」  外村世伊子の言い分は、理論的には素直なもので、俺も納得しないわけではなかったが、そこに亭主に対する愛憎の匂いが感じられないのは、外村世伊子の性格というだけのことなのだろうか。 「現在親しくしている男性がいるとか、結婚話が持ちあがっているとか、そんなことでもありますか」 「わたくしがそういう、器用な性格に見えまして?」 「あなた自身は不器用でも、周りに器用な男は、たくさんいるはずです」 「それ、褒めていただいたのかしら」 「率直な感想です。このままご主人に姿を消したままでいてもらいたいと思う男が、なん十人いるのか」  外村世伊子の切れ長の目が、大きく見開かれ、唇がかすかに歪んで、歯並びのいい前歯がにっこりとこぼれ出た。 「今のお言葉、悪気のない冗談として受け取っておきますわ。質問の答えはノーですけど、それにしてもあなた、真面目な顔をして悪い冗談をおっしゃいますのね」  俺にしてみれば精一杯控えめに本音を言ったつもりだったが、冗談としてしか受け取られないなら、今のところ、それでも仕方はない。 「ご主人を見つけたあとの結果は、わたしにも想像はつきません。しかし、とりあえず、仕事は引き受けます。二、三日のうちには手をつけられると思います」 「柚木さんが力になってくださることは、直感で感じておりましたわ」  その顔でにっこり笑うだけで、俺は地獄にでもつき合ってやるが、そういえば似たような状況で、これまでにも呆れるほど俺は地獄を見てきているのだ。 「ご主人の写真がありましたら、預からせてください」  外村世伊子がまた空色のバッグを覗き、中から掌大の写真を抜き出して、目尻に優雅な皺を刻みながらテーブル越しに腕を伸ばしてきた。受けとった写真には女と男が二人ずつ写っていて、一人が外村世伊子だから、男のうちどちらかが亭主の峰夫なのだろう。 「わたしの隣に立っているのが主人ですの。五年ほど前の写真ですけど、顔は変わっていないと思います」  写真の外村峰夫は、世伊子との比較から背は百八十以上もあり、角張った顔に顎鬚《あごひげ》をはやして、カメラマンというよりアメラグのクォーターバックのような風貌だった。もう一人の男も背は高かったが、顎は尖っていて、つくっている笑顔には神経質な雰囲気が感じられた。 「一緒に写っているのが田谷津《たやづ》幸司《こうじ》さんといって、主人の親友ですわ。主人が遭難したとき、最初に駒ケ岳に飛んでくれたのも田谷津さんでした」 「田谷津さんも、カメラマンですか」 「商事会社にお勤めの方ですけど、趣味が山登りで、主人と同じ『雫の会』という山岳同好会に入っています」 「もう一人の、横を向いた女の人は?」 「主人の妹です。名前は山口《やまぐち》麻希《まき》といいます。ちょっと変わった子で、美大を出てからジャンクアートのようなことをやっておりますわ」  山口麻希という亭主の妹は、角度の加減で顔立ちは分からなかったが、レゲエ風の髪を黄色いバンダナで包み、ロゴ入りのTシャツに膝の抜けたGパンという、見るからにゲイジュツカの女の子だった。 「山口麻希さんということは、妹さんは、結婚されているわけですね」 「いえ、申し上げるのが遅れましたけど、外村はわたくしのほうの姓ですの。主人には婿《むこ》養子の形を取ってもらいました」 「婿養子の……なるほど」 「主人は家柄とか戸籍とか、そういうことにも拘らない人でしたわ」 「一番親しかった友達は、田谷津さんですか」 「主人には山の関係でたくさん友達はおりましたけど、一番親しいということなら、田谷津さんですわね」 「妹さん以外に、ご主人の家族は?」 「ご両親も健在で、お二人で千葉の田舎にお住まいです。昔はかなりの土地持ちだったということですけど、お祖父様が不動産業で失敗されて、残ったのはご自宅だけになっています」 「この写真では、ご主人の齢が、分かりかねます」 「今年の二月で三十三になりました。わたくしの年齢も、お知りになりたい?」 「いえ……ええ、いや」 「三十五になりましたわ。主人より二つ、年上ですの」 「大きなお世話でしょうが、三十になったばかりかと思っていました。まあ、どうでもいいことです」  外村世伊子が、口を閉じたまま笑い、椅子の背に肩を引いて、テーブルの下でゆっくりと脚を組み合わせた。俺はなんの根拠もなく、妙に恥ずかしくなって、紅茶を飲み干し、封筒の上に写真を伏せて重ね合わせた。初対面の女に惚れるのも珍しいことではないが、今回の場合は、どうも、重症になりそうな困った予感がする。 「ご主人の妹さんとか、ご両親には、手紙の件はどう話しました?」と、埋草を我慢し、外村世伊子のミニスカートからやっとの思いで視線を外して、俺が言った。 「電話で連結をして、あちらにも手紙が届いていないか訊いてみました。主人が手紙を書いたのは、わたくしのところだけでした」 「ご両親と妹さんと田谷津さんの、住所と連絡先を書き出してください。それから、あなたの自宅の電話番号と」  うなずいて、バッグから大判のシステム手帳を取り出し、膝の上に手帳を開いて外村世伊子が金色のボールペンを走らせ始めた。そのあいだ俺は、コップの水で喉と唇の乾きを誤魔化《ごまか》していたが、アルコールでもないのに、とんでもなく悪酔いをしそうな気分だった。  書き込みの終わったページを切り離し、少し首を斜《かし》げながら、きれいにマニキュアを塗った指で外村世伊子が紙を俺に手渡してよこした。俺は住所と電話番号をかんたんに確かめ、会釈をして、写真や封筒と一緒にメモを上着の内ポケットにしまい込んだ。どういう結果が出るかは分からないが、どんな結果にせよ、三年間の空白に決着だけはつけさせてやろう。 「最初にうかがわなくてはならないことを、忘れていましたわ」と、組んだ膝の上に肘を立て、その腕で頬杖をついて、外村世伊子が肩を気楽に乗り出させた。「料金のことを決めなくては、いけませんでしたわね」 「そう、まあ、そうですね」 「興信所の相場は、一日十万円に必要経費だとうかがいました」 「だいたい、そんなところでしょう」 「興信所よりお高いことは承知しております。お幾らで、引き受けてくださいます?」  俺だって本当は、金なんか要らない、と見栄を切ってみたいところだが、大人の常識が、出かかった言葉を喉の出口で押さえ込んだ。見栄を張るのは簡単だが、マンションの部屋代や飲み屋のつけ[#「つけ」に傍点]を払うのは、そう簡単なことではない。 「一週間で百万、プラス必要経費……そういうことにしましょうか」 「異存はありませんわ」 「あくまでもアルバイトですので、領収書は出せません」 「そのことにも異存はありません」 「一週間動いて結果が出なかった場合は、そのときにまた、ご相談します」 「お願いしますわね。中途半端な気持ちで生きていると、生活まで中途半端になってしまいます。料金のほうは、先払いにいたします?」 「銀行口座に、仕事が終わってから、振り込んでください。納得のいく結果が出たらということで、結構ですが」  前金で、それも現金で、と言いたいところだったが、俺の恥ずかしい人生にも、それぐらいの見栄は張らせてやっていい。 「わたしのほうも、最初に訊くべきだったことを忘れていました」と、煙草とライターを引き寄せ、この一本で最後にしようと決めながら、火をつけて、俺が言った。「お店の、『鯨ハウス』という名前の由来を、訊き忘れていました」  外村世伊子が、ああ、というように口を開き、悪戯っぽく視線をそらして、額にかかった前髪を小指の先で軽く掻き分けた。 「いつも皆さんに訊かれますのよ。大人げないネーミングだとお思いでしょう? 最初はね、わたくしが自分で作った鯨の縫いぐるみだけを並べておりましたの。それがいつの間にか、ネットワークができてしまって、気がついたら家具まで置くようになってしまいましたわ」  いくら感心しても仕方はないが、関節の目立たない長い指といい、しみ[#「しみ」に傍点]のない白い首筋といい、年齢の澱《おり》を気楽に拒否している外村世伊子の清潔さは、俺の煤けた人生観には悲しく見えるほど無邪気だった。もし性格の不一致とかいうつまらない理由で姿を隠したのなら、法律がどうあろうと、見つけ出して、俺がこの手で外村峰夫を死刑にしてやる。 「最後に、もう一つ、訊きにくいことが残っていました」 「気を使わなくていいことは、最初に申し上げましたわよ」 「わたし自身に、自分の都合で、気を使ってしまった」 「はあ?」 「あなたにお子さんがいるか、なぜか、訊けませんでした」  外村世伊子がテーブルの下で、ゆっくりと脚を組みかえ、頬のあたりを掌で包んで、遠くのほうから、短く、ふっとため息をついた。 「子供は、おりませんわ。良かったのか悪かったのか、考えないことにしております。わたくしが考えるのは、毎日を後悔しないように生きる、それだけのことですわ」 [#ここから5字下げ] 3 [#ここで字下げ終わり]  三連休が過ぎて、どうやらゴールデンウィークも終わったらしいが、そんなことで俺の時間割りに喜ぶほどの変化がやって来るわけでもない。だらだらと事件を追いかけて、だらだらと原稿を書き、馬券を買って酒を飲んで惰眠を貪る。四十を目の前にしてこんな人生でいいのかと反省しなくもないが、俺が生活を悔い改めたところで、神様も女房も子供も、誰が褒めてくれるわけでもない。  二日のうちの一日を徹夜し、強盗殺人の原稿を書きあげ、雑誌社に渡して、俺はとにかく外村世伊子の亭主捜しを始めることにした。外村峰夫が三年前、なぜ妙な方法で姿を消したのか、今になってなぜ自分の生存を知らせてきたのか、そのあたりが確認できれば本人に行き着くのもそれほど難しいことではない。殺人事件の犯人を捜すのも、失踪した人間の居所を見つけるのも、捜査のテクニックとしては同じ理屈なのだ。  前の晩のアルコールの名残りを、躰の奥に引きずったまま、シャワーを浴び、着がえをして、正午《ひる》前に俺は四谷のマンションを出た。連休も過ぎたのに飽きもせず天気はよく、光の中には夏を予感させる乾いた気怠さが匂っていた。海ではしゃぐ年ではなくなっても、子供のころの感傷が、やはり俺に夏を待ち遠しく感じさせる。 [#ここから5字下げ] * [#ここで字下げ終わり]  西武池袋線の桜台という駅におりたのは、生まれてからこれが、二度めか三度めだった気がする。毎日のように東京をほっつき歩いて、乗ったことのない電車もないはずだが、おりたことのない駅はいくらでもある。俺が桜台に来たことがあるのは、たぶん学生のころ友達がこの町に住んでいたからで、しかしその友達が誰であったのか、男だったのか女だったのか、そんなことすら思い出さなかった。  駅前の商店街を北に向かって十分ほど歩き、路地を五つか六つ曲がって見つけた『かすみ荘』は、名前は花の霞草にちなんだものなのだろうが、実物はなんと言っていいのか、背中の毛穴が恐縮するほど古いアパートだった。壁は完璧にペンキの剥げた板張りで、屋根には色のはっきりしないスレート瓦をのせ、そしてなによりも、気のせいではなく、二階建ての建物自体が狭い路地に向かって悠然と傾斜を起こしているのだ。今年の冬にも大きい地震はあったはずで、それでも倒れていないところを見ると、これはこれとして力学的にはバランスが取れているのかも知れなかった。アパートのくせに敷地の入口には木の引き戸がついていて、玄関までの狭い空間には、ピンク色の花水木《はなみずき》と黄色い金雀枝《えにしだ》が狂ったように花の色を競わせていた。建物の南側には敷地が広く取ってあり、庭からは桜の大木が路地の外にまで大きく枝をはみ出させていた。アパート自体がジャンクアートのようなものだが、女の子だというのに、芸術家というのは不思議な住処観を持っているものだ。  明かりのない共同の沓脱《くつぬぎ》を覗くと、壁にボール紙でできた郵便受けが並んでいて、俺は山口麻希の部屋が一階の一号室であることを確かめ、廊下にはあがらず、板塀と小手毯《こでまり》の間を抜けて桜の木の横から建物の前面に回っていった。そこでもつい感心してしまったが、アパートの前の庭には洗濯物を干す柱が二本、颯爽《さっそう》と聳《そび》えていた。加えてなんとも嬉しかったのは、一階の部屋には、すべて縁側がついていたのだ。  俺はほんの一瞬茫然としたあと、気を取り直し、開いているガラス戸から一番手前の部屋をそっと覗いてみた。三畳ぐらいの部屋には、敷きっぱなしの布団を中心に、テレビやら小机やらコーヒーの空き缶のようなものが、俺の覚悟を馬鹿にするような壮絶さで散らばっていた。人間が顔を突き出したのは、しかしその部屋ではなく、やはりガラス戸を開け放ってある隣の部屋からだった。  丸坊主に近いほど髪を短くしたその頭が、女の子だと理解できるまでには、五秒ほどの時間と三十八年の人生経験が必要だった。 「隣の、山口麻希さんを訪ねてきたんだが」 「あんた、昨夜電話してきた人?」 「ん?」 「兄貴のことで電話してきた、柚木さんていう人でしょう?」  俺はタンポポや他の知らない雑草が生えている庭を、恐るおそる二番めの部屋まで進み、縁側から丸い目でとぼけたように俺を見つめている女の子の顔を、息を止めて見返してみた。写真で見た山口麻希は、レゲエ風の髪に黄色いバンダナを巻いていたが、そういえば外村世伊子も、あの写真は五年前のものだと言っていた。 「君が、つまり、山口麻希さんか」 「わたしが山口麻希では、いけない?」 「そういうわけじゃないが、部屋が違うような気がしてな」 「両方ともわたしが借りているのよ。荷物が多いし、引っ越すのも面倒だしね」 「両方とも、か。そうか、まあ、いい部屋だ」  山口麻希が俺の顔に視線を固定したまま、縁側に屈み込み、色の抜けたジーパンの脚を縁側の外にぶらっと投げ出した。俺は縁側の前まで歩いていって、額と耳をむき出しにした山口麻希の小さい顔を、名刺を渡しながら興味ぶかく観察した。外村峰夫の妹だから二十歳ということはないだろうが、二十五を過ぎているようには、なんとしても思えなかった。化粧をしていないくせに皺《しわ》もくすみもなく、唇もきれいなピンク色で、丸い目が俺の顔を睨《にら》んでさえいなければ、思わず拍手したくなるほどの美人だった。ジーパンの上には黒いコットンセーターを被っていて、㈸ネックの下の胸には、どうやら、ブラジャーはつけていないようだった。 「君の兄さんから、外村世伊子さんに手紙が届いた件について、調べている」と、俺の名刺を、近眼らしい目で顔のすぐ前にかざしている山口麻希に、俺が言った。 「そうなんだってね。世伊子さんからも電話が来たけど、悪戯《いたずら》じゃないのかな」と、名刺をGパンの尻ポケットに突っ込み、素足の脚をぶらっと振って、山口麻希が言った。「三年前の山の事件で、兄貴、死んでると思うけどなあ」 「その兄さんから手紙が来たから、世伊子さんも困ってるわけだ」 「あんた……柚木さん? 雑誌の仕事で、調べてるんじゃないんだ」 「世伊子さんの友達の友達で、個人的に頼まれただけさ」 「頼まれたって、どういうふうに?」 「君の兄さんを捜すように」 「捜すように……ふうん。だけど兄貴は、死んでるはずなのにねえ」  山口麻希が首をかしげて、下から俺の顔を覗きあげ、俺のほうは上着のポケットから外村峰夫の手紙を取り出しながら、縁側の空いている部分に勝手に腰をおろした。 「兄さんから世伊子さんに来た手紙だ。彼女は、君の兄さんの字に間ちがいないと言ってる」  俺の手から封筒を受け取り、上唇をなめながら、中味を抜き出して、山口麻希が十秒ほどじっと便箋を睨みつけた。近眼のせいでもあるだろうが、この物を睨む癖《くせ》さえなければ、分類的には可憐なタイプの顔立ちだった。 「兄貴の字みたいだけど、待ってくれる? わたしに来た葉書と比べてみるわ」  山口麻希が反動をつけて立ちあがり、部屋の中に入っていって、一、二秒で元の縁側に戻ってきた。二つめの部屋も唸るほどの荷物が溢れていたが、こっちのほうはイーゼルだのキャンバスだの、絵の道具らしい物が中心だった。 「これね、沖縄から兄貴がよこした葉書だけど、同じ字だと思う?」と、便箋と珊瑚礁《さんごしょう》の絵葉書を並べて差し出しながら、縁側に胡座《あぐら》をかいて、山口麻希が言った。  その二枚を受け取り、『様』とか『来る』とか『峰夫』とか、両方に共通する文字を比べてみたが、角張った右あがりの字は、俺の目にも同じ人間が書いたものとしか見えなかった。文章自体は海が青いとか光が透明だとか、他人にとってはどうでもいい内容だった。 「同じ字のように見える。この絵葉書は、四年前のものか……」と、スタンプの日付けを確かめながら、煙草を取り出し、火をつけて、俺が言った。「やっぱり君の兄さんは、死んでいないということだな」 「そういうことになるのかな。でも三年前、駒ケ岳で見つかったのはテントや寝袋だけ。兄貴は見つからなかった」 「三年前の捜索には、君も加わったのか」 「わたしは山小屋で待っていたわよ。兄貴と違って、汗をかくのは苦手なの」 「当時は、崖崩れかなにかの原因で遭難した、ということになったんだよな」 「信じられなかったけどね。兄貴って生命力の強いタイプでさ。山なんかで死ぬはず、ないと思ったんだよね」  山に登るような人間は、基本的には体力も生命力も強いタイプのはずで、しかし現実には、そういう男たちが毎年なん人も山で死んでいるのだ。生命力に過信があるのか、山で死ぬことに暗黙の美学があるのか、そのへんのところは、俺にはなんとも分からない。 「兄さんはこうして世伊子さんに手紙を書いてきた。山で遭難したのではなかった、ということだ」 「三年前も信じられなかったけど、今も信じられないな。生きてるならわたしやお袋に、なにか言ってくるのにね」 「そのなにも言ってこない理由を、君に、聞きたいと思った」  山口麻希がコットンセーターの肩をすくめて、躰をひねり、縁側からは動かずに、部屋の中からひょいと煙草とライターを引き寄せた。立ちあがらなくても人生のすべてが解決する、ずいぶん便利のいい部屋らしかった。 「兄貴が生きていたということは、三年前、理由があって姿を消したのよね」と、煙草に火をつけ、庭に向かって長く煙を吐きながら、ジーパンの膝を抱え込んで、山口麻希が言った。 「兄貴がそんなことをする必要、なにかあったのかなあ」 「訊いているのは、俺のほうだ」 「世伊子さんが知らないのに、わたしが知るわけないじゃない」 「仕事のことでは、なにか聞かなかったか」 「仕事?」 「駒ケ岳にはイワヒバリとかいう鳥の写真を撮りに行ったそうだ。仕事なら、依頼主はいたはずだ」 「そういえば、駒ケ岳には出版社の人も駆けつけたっけな」 「出版社の、名前は?」 「覚えていないわよ。あのときはそんなことに気は回らなかったし、それに、聞いたこともない出版社だった」  会社の名前はあとで調べるとして、出版社の人間が駒ケ岳にまで駆けつけたということなら、外村峰夫が仕事のために山に入ったことは、一応事実なのだろう。仕事のために駒ケ岳に登り、そこで姿を消さなくてはならない、なんらかの状況に陥ったことになる。 「仕事や、家庭生活や、友達関係で、兄さんがトラブルを抱え込んでいた可能性は、本当にないのかな」 「柚木さん、あんた、兄貴のことを知っていた?」 「いや……」 「兄妹《きょうだい》だから言うわけじゃないけど、ああいう善人も珍しかったわよ。わたし、子供のころ、兄貴のことを馬鹿じゃないかと思ったこともあった。それぐらい良《い》い奴だったということね」 「政治活動にも、社会運動にも、関係はなかったのか」 「兄貴の優しさって、一種の諦めだったのよね。たまにいるでしょう? 子供のころから人間のことがぜんぶ分かっちゃう奴。兄貴もああいうタイプだった。社会にも他人にも優しかったけど、のめり込むこともなかった。興味を持っていたのは植物とか昆虫とか、ああいうものだけだったな」 「世伊子さんに対しても、のめり込むことは、なかった?」 「あれは、うん、あのときだけは、笑えたわね。兄貴でも女の人を好きになるのかって、感動しちゃった。兄貴が外村の家の婿養子だったこと、知ってる?」 「聞いては、いる」 「親父やお袋は反対したのよ。兄貴は長男だしね、相手が金持ちだからって、家を売るようなことはさせられないって。でも兄貴、あのときだけは親父の言うことを聞かなかった。わたしなんか全面的に応援しちゃったわ」 「そのこと以外で、二人が結婚するとき、なにか問題はなかったのか? なにしろ彼女は……」 「あれだけの美人だし、お金持ちだし?」 「まあ、そうだな」 「世伊子さんぐらい美人なら、周りの男が勝手に問題を起こすわよ。兄貴との結婚が決まったとき、自殺しかけた奴もいるって聞いたわ」 「自殺しかけた……男の名前、分かるか」 「知らないなあ。六年も前だし、わたし、そういうことには興味ないの」 「結婚してから、兄さんと世伊子さんは、うまくいってたのかな」 「そう思うけどね。兄貴って余計なことは言わない性格だった。でもなにか問題があれば、雰囲気で分かったと思う。わたし、よく奥沢の家に遊びに行ってたもの」 「結婚生活もうまくいってたし、友達とのトラブルもなかった。いったい兄さんは、なんで姿を消したんだろうな」 「だから、やっぱり、あれ[#「あれ」に傍点]なんじゃないの?」 「やっぱり、三年前に、駒ケ岳で死んでいる?」 「兄貴が世伊子さんに黙って姿を消すなんて、考えられないもの。生きているとしたら、一番会いたい人は世伊子さんのはずなのよねえ」  山口麻希が、吸っていた煙草を庭のまん中に弾き飛ばし、縁側の日差しを吸い込むように、胡座をかいたまま大きく背伸びをした。きれいな顔の割りに表情が投げやりで、口調にも仕草にもどこかで世の中を拗ねている気怠さがあった。他人の生き方に口を挟むほど律儀ではないが、アパートといい髪型といい、全面的に賛成したい人生観ではなさそうだった。 「余計なことだけど、一つ、訊いていいか」と、自分でも庭のまん中に煙草を弾き、光の中で欠伸をしている山口麻希に、俺が言った。「君と兄さんは、歳がいくつ違うんだ?」 「五つだけど、どうして?」 「君は、つまり、二十八ということか」 「二十八じゃいけないの」 「若く見えたんで、驚いただけだ」 「つき合ってる連中が若いせいかな。学生みたいな奴ばっかりだからね」 「芸術を、やってるんだってな」 「へええ。世伊子さんに聞いたわけ?」 「ジャンクアートっていうから、もっと怖い女の子かと思った」 「ふだんは絵を描いているだけよ。食べるために広告もポスターも描くし、ショーウインドーのディスプレイもやるわ。そういうことには拘らない性格なの」 「つき合う男にも拘らない、か?」 「なんのこと?」 「訊いてみただけさ」 「そんなことを聞いて、どうするのよ」 「年齢制限がなければ、試しに、立候補してみようかと思ってな」 「試しに……ああ、そういうこと」  口を開けて、山口麻希が大袈裟《おおげさ》に笑い、眉の間に皺を寄せて肩を俺の顔の前に突き出した。 「わたし、近眼でね、今日はまだコンタクトを入れてないの」 「目のいい女は嫌いだ。この前つき合った子には、白髪の数まで数えられた。コンタクトを入れる前に、昼飯でもどうだ」 「奢《おご》ってくれるわけ?」 「取材に協力してくれた、謝礼みたいなもんさ。それに桜台には思い出があって、君みたいな可愛い子と、もう少しだけ散歩をしてみたい」  山口麻希がまた声を出して笑ったが、俺は封筒と絵葉書をポケットにしまい、縁側をおりて、近眼の丸い目で俺の顔を睨んでいる坊主みたいな頭に、軽くうなずいてやった。 「あんたも運がいいわ。わたしも朝飯を食べに行こうと思っていたの。天気もいいし、どうせ夜まで、することは無かったのよね」  縁側からごろんと部屋の中に転がり、立ち上がって、そのまま待つようにと目で合図をし、山口麻希がガラス戸を閉めて中からねじ込み式の鍵をかけ始めた。俺には瓦落多《がらくた》にしか見えない荷物も、本人にとっては立派に意味のある財産なのだろう。  俺はヤツデやツツジの植え込みを眺めながら、煙草に火をつけ、山口麻希がもう一つの部屋のガラス戸を閉めてくるまで、煙草を吹かしながら、ぼんやり庭に突っ立っていた。たしかに天気はいいし、アパートは学生時代を思い出してしまうほど懐かしかったが、しかし山口麻希は、いったい何を俺に隠しているのだろう。 [#ここから5字下げ] * [#ここで字下げ終わり]  駅のそばにあるステーキハウスで、三千五百円の『ステーキセット』とかいうやつを奢らされたが、結局アパートで得た以上の情報は聞き出せなかった。山口麻希とは店の前で別れて、俺はそこからタクシーで練馬区の図書館に向かった。捜査を始めた初日でもあるし、今以上に外村峰夫がどこかへ行くわけでもなし、事件の構図は、ゆっくり解き明かせばいい。意識的に遅らせようとまでは思わなかったが、事件が早く解決してしまえば、それだけ外村世伊子との縁も早く切れてしまう。  俺が図書館に出向いたのは、もちろん三年前の遭難に関して、新聞の縮刷版を閲覧することが目的だった。混み合っている閲覧室の隅にその縮刷版を持ち出し、俺は六月十日以降の社会面に、注意深く目を通してみた。最初に外村峰夫の記事が載っていたのは、十三日づけの朝刊で、記事自体は峰夫の名前と職業と、それから地元の山岳会と雫の会が合同で捜索を開始したという、十行ほどの簡単なものだった。十六日の朝刊にはやはり短い関連記事が載っていて、そこには峰夫のものと思われるテントと寝袋が黒川渓谷というところで発見された、と書いてあった。加えて誰だか知らないが、地滑りか崖崩れに巻き込まれた可能性が強い、という関係者のコメントまで載っていた。遭難関係の記事が載っていたのはそこまでで、念のために六月一杯の社会面をすべて調べてみたが、外村峰夫の名前は二度と新聞の中に見つからなかった。無名のカメラマンが山で行方不明になったぐらいでは、当然ではあるが、新聞も社会もそれ以上の関心は示さないということだ。  外村峰夫の記事を探しながら、俺がもう一つ注意していたのは、同じ時期に駒ケ岳付近でなにか別な事件が起こっていないか、ということだった。外村世伊子や山口麻希の話からは、姿を消すために、峰夫が意図的に駒ケ岳を利用したとは考えにくい。撮ってはいけない写真を撮ってしまったとか、なにかの事件に巻き込まれたということなら、痕跡がどこかに残っていなくてはならない。そう思って丹念に調べてみたが、駒ケ岳が記事になっている事件は、峰夫の遭難以外には一つも見当たらなかった。新聞の記事にヒントが見つかると期待していたわけではなかったが、しかし捜査の手順としては、調べるものは調べなくてはならないのだ。警官時代も含めて、こういう無駄の積み重ねを、俺はもう十五年もつづけている。 「六月十三日……か」と、独り言を言いながら縮刷版を閉じたとき、ふと俺は、そのことを思い出した。外村世伊子は、入山記録には亭主の名前が残っていた、と言ったのではなかったか。下山予定日を二日過ぎても帰らなかったので、世伊子が自分で亭主の親友に連絡をしたのだ。たしかにそれで日にちの計算は合うのだろうが、入山記録には下山予定日とかいうやつも記入されているのではないか。もしそうだとすれば、現地の係員は十日の日に、すでに峰夫が下山していないことを知っていなくてはならない。俺には山のことも、登山のシステムも分からないが、素人《しろうと》が考える限り、そこには二日の間の遅れがある。失踪事件にこの二日がどう関係しているのか、どこかでけじめをつけておく必要はあるだろう。  縮刷版を棚に戻し、図書館を出て練馬駅の方向に歩きかけ、思い出して、俺は自分の留守番電話に伝言が入っていないか、公衆電話から確かめてみることにした。昨夜田谷津幸司の家に電話をして、相手の留守番電話に用件を入れておいたのだが、昨夜から今日の正午《ひる》まで、田谷津幸司から電話はかかってこなかった。  留守番電話には一件のメッセージも入っておらず、無駄を承知で、俺はまた田谷津幸司の家に電話を入れてみた。留守番電話を使っているから独身のはずで、しかも一人暮らしではあるのだろうが、なにかの都合で会社を休んでいることもある。しかし受話器に聞こえたのは留守を知らせるメッセージだけで、仕方なく俺は、外村世伊子が書き出した三友商事の営業部に電話をかけ直した。私用で他人の会社に電話をするのは主義ではないが、俺ものんびり相手からの電話を待ってはいられない。  受付けを呼び出し、営業四課の田谷津幸司につながるのを待っていると、若い女の声が応対に出て、一瞬どう理解していいのか分からなかったが、田谷津は三日前に交通事故にあって入院している、という内容を伝えてきた。怪我《けが》の程度は腕の骨折だけらしいが、俺は大学時代の友達だと言って病院の名前を聞き、女に礼を言って、電話を切った。交通事故ぐらい、誰でもどんな状況でも巻き込まれはするが、外村世伊子に死んだはずの亭主から手紙が届いた直後であるだけに、なんとなく、俺は嫌な予感がした。意欲的に首を突っ込んだ仕事でもなかったが、考えていたより、もしかしたら、この事件の根は深いのかも知れない。  西武池袋線の練馬駅に向かって歩きながら、外村世伊子の清潔な笑顔と、山口麻希の投げやりな目の表情を思い出して、一つだけ、俺は音を出して舌打ちをした。 [#ここから5字下げ] * [#ここで字下げ終わり]  田谷津幸司が入院している杉並の病院に直行してもよかったが、病院も怪我人も逃げるわけではなし、俺は山手線と中央線を乗り継いで、新宿から三鷹に出た。三鷹の駅からタクシーで十分ほどのところに、『物質工学研究所』という民間の検査機関があって、そこで筆跡鑑定をしてもらおうと思ったのだ。昔の筆跡鑑定の基準は研究者の勘と経験だったが、今は光学器械とコンピュータで、百パーセントちかい真偽の判定を出せるようになっている。研究所には警視庁の科学研究所から移っていった人間もいるし、俺は以前にも二度、鳥の羽根と油絵の具について分析を依頼している。外村世伊子も山口麻希も断定していて、俺にも便箋と絵葉書の文字は同じ筆跡に見えるが、こういう部分で手を抜いていたら興信所と同じ体質になってしまう。仕事に対する礼儀としても、勘だけで捜査を進めるわけにはいかないのだ。  研究所の玄関にタクシーを乗りつけ、受付けで兼子《かねこ》という研究員を呼び出してもらい、ロビーで煙草を吹かしていると、五分ほどで相撲取りが白衣を着たような男がのんびりとサンダルを引きずって現れた。 「柚木さん、しばらくじゃないの。最近顔を見せないから、商売がえでもしたのかと患ってましたよ」と、安物のソファに気をつかいながら、俺の向かい側にゆったりと腰をおろして、兼子が言った。 「こういう場所には無縁に生きようと努力している。あんたも痩せて、顔色がよくなった」 「冗談を言わないでください。また五キロ太って、女房に離婚されそうなんですよ。食い物を減らすぐらいなら、いっそのこと離婚でもしようと思ってますがね」 「結婚したり離婚したり、殺されたり、人生ってのは面倒だよな」 「柚木さんのほうは、どうなんです? 美人の奥さんとは相変わらず、別居のままなんですか」 「女房の顔を見るのが怖くて、呼び出しがかかると、つい逃げ出してしまう」 「世の中はうまく出来ていますよ。やくざを二人も撃ち殺した柚木さんに、怖いものがあるんですからねえ」  兼子が白衣のポケットから煙草を取り出し、俺も上着のポケットから封筒と絵葉書を抜き出して、兼子が煙草に火をつけるのを待ってから、二枚を並べてテーブルの上に差し出した。 「封筒の中には便箋も入っている。内容はどうでもいいんだが、便箋の文字と絵葉書の文字を、比較してもらいたい」 「筆跡鑑定ですか。昔はこんなものにでも苦労したんですよねえ。同一人物の字かどうかを分析すればいいんでしょう? 二、三日もあれば出来ると思いますがね」 「ちょっと、急いでいるんだがな」 「柚木さんはいつだって急いでいるし、ほかの依頼主も急いでますよ。仕事には手順というやつがあるんです」 「個人的に一、二時間残業すれば、済むことじゃないか」 「かんたんに言ってくれますねえ。残業をするのは柚木さんじゃなくて、あたしなんですよ」 「まじめに働く人間には余禄もついて回るさ。新宿あたりのキャバレーなら、経費で落とせるけどな」 「キャバレー、ねえ」 「研究室に閉じ籠もっていたら、ストレスが溜まるんじゃないのか」 「そりゃあ、ストレスは、ねえ」 「ストレスを解消させるためにはいやな残業もしなくちゃならん。人生の難しいところだが、お互い中年男の意地で、少しだけ頑張ってみようじゃないか」  兼子が吸っていた煙草を灰皿でひねりつぶし、封筒と絵葉書に手を伸ばすのを確かめながら立ちあがり、ソファの前からフロアに出て、俺が言った。 「結果が出たら知らせてくれ。留守番電話に内容を入れてくれてもいい。ストレスのほうは、あんたの都合に合わせる。キャバクラでもオカマバーでもノーパン焼肉でも、とにかく一晩騒いで、お互いに中年男の哀愁を噛《か》みしめたいもんだ」 [#ここから5字下げ] * [#ここで字下げ終わり]  日は沈みきったが、暗くなったわけではなく、曖昧《あいまい》な夕方の時間が色のない東京の空を慌ただしく駆け抜けていく。中央線ものぼり電車は文句を言うほどの混み方ではなく、荻窪で乗りかえた丸ノ内線も、夕方のラッシュはくだり方向の電車だけだった。俺は新高円寺の駅で地下鉄をおり、交番で『高南外科』の場所を聞いて、青梅街道沿いを五分ほど高円寺陸橋のほうへ歩いていった。歩道の左側に病院はすぐに見つかって、受付けで田谷津幸司の部屋を教えてもらい、三階の病室まで、俺は手摺のついた薄暗い階段を疲れた気分でのぼっていった。病人にも怪我人にも慣れてはいるが、誤魔化しようのない死の匂いが、いつまでたっても、俺に病院という場所を好きにさせなかった。  田谷津幸司が入っていたのは、三〇三号の六人部屋で、俺は付添いのおばさんに田谷津のベッドを教えてもらい、窓側から二番めの衝立の陰まで、ゆっくりと歩いていった。食事時間は過ぎているらしく、田谷津は左肩から手首までをギブスで固定させ、躰を起こして写真週刊誌に見入っていた。額にも斜めに包帯は巻かれていたが、足に怪我はないのか、付添いらしい人間の姿は見当たらなかった。  立ち止まった俺に、週刊誌から顔をあげ、包帯の下から、田谷津幸司がちらっと視線を送ってきた。濃い無精髭がエリートサラリーマンの顔を貧相に見せていたが、口の形や目の表情には年齢以上の落ち着きが感じられた。写真で見たときに神経質な印象を受けたのは、しゃくれぎみに尖っているその顎のせいだろう。 「外村世伊子さんから依頼されて、彼女のご主人から届いた手紙の件を、調べています」と、会釈をし、田谷津の右手に名刺を渡してから、ベッドと衝立の狭い隙間に立って、俺が言った。 「あの件で……なるほどね、やつから手紙が来たことは、世伊子さんからも聞いています」 「あなたが交通事故にあったことは、知りませんでした。世伊子さんからも聞いていなかった」 「彼女には知らせてないんです。面倒なことは、避けたいと思いましてね」  田谷津が動く右手で俺に丸椅子をすすめ、ベッド脇のテーブルからウーロン茶の缶を取りあげて、天井を仰ぎながら、その缶にしばらく口をつけつづけた。  俺は丸椅子を引いて腰をおろし、田谷津がウーロン茶を飲み終わるまで、黙って腕のギブスと額の包帯を観察していた。 「で、怪我《けが》のほうは、どんな具合です?」と、灰皿がないことを残念に思いながら、田谷津幸司の目の動きを覗いて、俺が言った。 「上腕部の単純骨折ですよ。頭には異常がないということで、一週間で退院できるそうです」 「クルマ同士の、交通事故で?」 「いや、その、わたしが、酔っていたせいもあるでしょうが、狭い道でぶつけられました」 「当然、相手のクルマは、覚えていない?」 「は?」 「ただの交通事故なら、世伊子さんにも連絡しているでしょう」  田谷津が口を開きかけ、しかしそのまま黙り込んで、戸惑ったような視線を、二、三度俺の顔と病室の壁に往復させた。 「柚木さん、あなた、世伊子さんとは、どういう関係の方ですか?」 「わたしの知り合いが、たまたま彼女の知り合いでもあったというだけです。商売は雑誌の記者ですが、今度の事件を記事にするつもりはありません」 「世伊子さんに頼まれているなら、へんに隠しては、具合が悪いということですか」 「結果は同じです。あなたが話してくれなければ、事故のことは自分で調べます」 「そういう……いや、別に、意味もなく隠すつもりはないんですが、ちょっと、嫌な気がしまして、それで迷っただけのことです」 「外村峰夫さんからの手紙に、関係あるということで、ですか」 「偶然だとは思うんですがね。わたしも酔っていたんで、勘違いかも知れません。ただ、クルマが、どうも、尾灯をつけていなかったような気がするんです。ナンバーを見ようと振り返ったんですが、たいした距離でもないのに、尾灯もナンバープレートも見えませんでした」 「錯覚か、あなた自身が混乱していたか、どちらかの可能性は?」 「はっきりしないんですよ。意識は、ちゃんとあったはずなんですが……」 「警察には、話してありますか?」 「いや……」 「本当は手紙のことが気になったから。そういうことですね」  田谷津幸司が、曖昧にうなずき、舌の先で唇を湿らせて、低く咳払いをした。 「正直に言って、クルマにぶつけられるまでは、手紙のことは誰かの悪戯だと思っていました。今でも本物だとは思っていませんが、それにしてもなにか、引っかかるんです」  田谷津が外村峰夫のただの親友で、世伊子が親友の女房というだけのことなら、交通事故と手紙を、そこまで簡単には結びつけないだろう。事故にあった事実を世伊子に隠しておく必要もない。 「外村峰夫さんが死んでから、あるいは死んだということになってから、三年がたっている。あなたご自身も独身である。引っかかるのは、そのあたりの問題ですか」 「わたし、彼女に、結婚を申し込みました」 「結婚を……ああ、そうですか」 「彼女もあいつのことは忘れていい時期だと思います。遺体は発見されていませんが、三年前、間ちがいなくやつは駒ケ岳で死んでいるんです。黒川渓谷でテントと寝袋を見つけたとき、そのことを確信しました。ですから、わたしが彼女を好きになって結婚を申し込んだとしても、気持ちにやましいところはありません。それは彼女にも、分かっているはずです」  意味もなく俺が慌《あわ》てたのは、たぶん、田谷津幸司が口にした結婚という言葉が、俺のためらいを無視して、悔しいほど率直だったからだろう。 「あなたが結婚を申し込んで、世伊子さんの、返事は?」 「三年が過ぎるまで、六月十日が過ぎるまで、待つようにとのことでした」 「六月十日が、過ぎるまで……」  失踪人の生死が確認されなくても、まる三年が経過すれば、たしかに残された側から一方的に離婚申請はできる。そのことを知って外村世伊子は六月十日に拘《こだわ》ったのか、それともたんに、気持ちの区切りとして、三年間という時間を設定したのか。しかし俺が自由が丘で男の話題を持ち出したとき、世伊子ははっきり、ノーと答えたではないか。 「外村峰夫さんが生きていると、どうも、話が面倒になりますね」 「生きていれば、いや、本当に生きているなら、わたしはプロポーズを取り消します。やつが生きていることを、心から喜んでやりますよ」 「手紙は東京から出されています。峰夫さんが東京に住んでいて、あなたが世伊子さんに結婚を申し込んだことを知ったら、殺す気になったかも知れない。さっき言った引っかかりというのは、そのことでしょう?」 「生きているなら直接わたしに言えばいいんです。クルマをぶつけるようなことは、しなくていいはずです」 「姿を現せない事情がある。手紙には、そう書いてあります」 「やつが姿を現せない、どんな事情があるんです? 事件とか犯罪とかに、あいつほど無縁な男はいませんでしたよ。もし勘違いをして彼女やわたしを恨んだとしても、クルマをぶつけるような卑怯な性格ではなかった。やつが三年間姿を現さない理由は、たった一つ、駒ケ岳で死んでいるからです」  田谷津幸司がベッドの背坂に躰を倒し、ギブスを巻いている左腕を抱えて、包帯の下から、光の強い目でじっと俺の顔を見据えてきた。外村峰夫が生きていても、死んでいても、親友の女房に惚れてしまうこと自体、どこかに心理的な葛藤はあるに違いない。生きていることを望む気持ちに嘘はないだろうが、それ以上の大きさで、死んでいることも期待している。この奇妙な三角関係に決着をつけるには、外村峰夫の生死を見極めるしか方法はない。 「怪我をしているのに申しわけないが、三年前の遭難事件について、もう少し聞かせてください」と、煙草の切れかけた神経をなだめながら、丸椅子をベッドから遠ざけ、尻をずらして、俺が言った。「当時の新聞を読んでいて、一つだけ気になったことがある。外村峰夫さんは、六月の十日には山をおりると世伊子さんに言っているのに、入山表には、下山予定日を書き入れなかったんでしょうかね」 「それは、わたしも、不思議に思いました」と、ベッドの上に座り直し、額の包帯を指の先で触りながら、咳《せき》払いをして、田谷津幸司が言った。「入山記録には下山予定日も書かれていましたよ。六月十一日とありました」 「六月、十一日?」 「世伊子さんから電話を貰って、わたしが駒ケ岳に飛んだのが六月十二日の夕方でした。そのときは現地でも対策を考え始めていました。もし入山記録が十日になっていれば、一日早く捜索を開始できたことになります。たんなる記入ミスだと、あのときは、そう考えるより仕方がありませんでした」 「外村峰夫さん自身の記入ミスで、係員のミスでも、もちろん世伊子さんの思い違いでもない?」 「やつが遭難することなんて、誰にも分かっていませんでしたからね。あのまま十日に下山してくれば、なにも問題はなかったんです」  外村峰夫が六月十日に下山していれば、問題はなかったろうし、遭難を誰も予想していなかったのなら、一日の誤差は、不幸な偶然ということになる。しかし遭難を予想した人間が一人いて、それが外村峰夫本人だったとしたら、どういうことになるのか。一日の誤差を意識的に三年にまで拡大したとすれば、田谷津幸司がどう思おうと、外村峰夫は生きていなくてはならない。 「外村峰夫さんが駒ケ岳に登ったのは、出版社の仕事でイワヒバリという鳥の写真を撮ることが目的だったことは、ご存知でしたか」 「あとになって、世伊子さんから、そう聞きました」 「出版社の名前を覚えていませんかね」 「そこまでは、覚えていませんね」 「駒ケ岳には出版社の人も駆けつけたと聞きましたが」 「あのときは……いや、出版社の人間も捜索隊に加わりましたが、彼は雫の会のメンバーですよ。医学関係の専門書を出している会社に勤めている男です」 「医学関係の、出版社に、ですか」 「東京から駆けつけたのは、雫の会のメンバーと、外村の身内だけだったはずですがね」  駒ケ岳に駆けつけた人間が、山岳会のメンバーと外村の身内だけだったとすれば、田谷津幸司の知らない人間はいなかったはずだ。外村峰夫に写真を依頼した出版社の社員が顔を見せたというのは、山口麻希の、勘違いだったのか。それでは仕事で駒ケ岳に登ったことの証拠は、外村世伊子の証言だけになってしまう。 「最後に、もう一つ。外村さんたちの結婚が決まったとき、世伊子さんの関係で、自殺しそうになった人がいたそうですね」  田谷津幸司が、無精髭を皮肉っぽく笑わせ、崩れた寝巻きの裾を整えながら、ギブスを巻いた肩で大きく息をついた。 「誰に聞いたか知りませんが、世伊子さんに惚れていた男はみんなパニックを起こしました。自殺しかけた奴もいますけど、その男も田舎《いなか》に帰って結婚しました。今年の正月には、子供の写真を年賀状に印刷してきましたよ。当時の取り巻きで今でも世伊子さんを待っているのは、わたしぐらいのものでしょうね」  顎鬚をさすり始めた田谷津の横顔を眺めながら、意識的に肩をすくめ、立ちあがって、俺は丸椅子を通路の側からベッドの脇に、強く押し戻した。 「世伊子さんにも、山口麻希さんにも聞きましたが、外村峰夫さんがトラブルを抱えていたようなことは、あなたにも心当たりはないんでしょうね」  田谷津幸司が最初と同じように、包帯の下から無表情な目で俺の顔を見あげたが、返事はせず、無精髭をさすりながら、静かに首を横に振ってみせた。  俺ももう訊くことはなく、怪我の養生をするようにとだけ言って、病室を出た。外村世伊子がどんな返事をするのか知らないが、あと一ヵ月間を、田谷津はこれまでの六年間以上に長い時間として待たなくてはならないのだ。きれい事を言ったところで、残念ながら、男の人生は女に選ばれるのを待つことでしかない。 [#ここから5字下げ] 4 [#ここで字下げ終わり]  留守番電話に入っていた兼子からの鑑定報告は、予想どおり、便箋と絵葉書の字は限りなく同じ人間が書いたものと思われる、というものだった。光学分析による筆勢や筆圧の比較と、コンピュータでの画像解析の結果は、九十九パーセント同一人物の筆跡だと断走していた。手紙が外村峰夫のものと決まった以上、俺のすることはもう、手紙を書いた本人を見つけ出す以外にはない。外村峰夫は東京にいて、しかも田谷津や世伊子の動静を目の届く場所で見守っている。そのことにどういう意味があるのかは知らないが、峰夫が暗黙の束縛をつづける限り、世伊子も結論のでない生活に屈折を持ちつづけなくてはならない。男が女に執着する気持ちも分かるし、相手が世伊子なら当然の執着だろうが、この状況はたんに、悪意のある執念でしかない。妻や妹や親友が証言した外村峰夫の人間像と、今のこの現実は、いったいどこで交錯してくるのだろうか。  自分でつくったツナサンドと、二杯のコーヒーで朝飯を済ませ、十時には、俺はもうマンションの部屋を出た。田谷津が世伊子に結婚を申し込んだ事実は事実として、気持ちの幼稚な部分が、その返事を早く聞きたいと俺にせがんでくる。仕事を引き受ける度に女に惚れていても仕方はないが、どういうわけか、そういうことには、妙に俺は疲れない体質らしい。 [#ここから5字下げ] * [#ここで字下げ終わり]  自由が丘の『鯨ハウス』には、二人の客がいたが、外村世伊子は客の相手をしておらず、丸テーブルに座って指の先で青いティーカップを弄んでいた。店の中には聞いたことのある古いジャズが流れていて、考えるまでもなく、世伊子にも今日の天気にも、俺が持ってきた生臭い話題は不似合いだった。しかし俺は、自由が丘まで、わざわざ鯨の縫いぐるみを買いに来たわけではない。  帳簿のようなものに目を通していた外村世伊子が、顔をあげ、首をかしげてから、表情を大きく崩して俺に向かい側の椅子をすすめてきた。今日の世伊子は白いチノパンツにボーダー柄のカットソーを着て、両腕の袖を肘の上まで元気よく捲りあげていた。これで髪をポニーテールに結んでいれば、俺は目を回しながら口笛を吹いてしまう。 「たまたま近くを通ったので、寄ってみました」と、椅子に腰をおろし、客ともう一人の女の子の動きを遠くに眺めながら、煙草の箱をポケットの中で握ったまま、俺が言った。 「わざわざ来てくださったほうが、わたくしとしては嬉しかったのに」と、帳簿を閉じながら目で笑い、袖をあげた肘をテーブルの端にかけて、外村世伊子が言った。 「実は、まあ、わざわざ来ました」 「主人のことで、なにか分かったことがありましたの?」 「ご主人が生きていることが分かりました。なぜ姿を隠しているのか、今どこに住んでいるのか、それは、これから調べます」  世伊子が俺の目を覗いたまま、唇に力を入れ、呼吸を整えながら、一瞬眉の間に強い皺をつくった。 「そうですの。気持ちのどこかで、手紙は間ちがいかも知れないと思っていましたけど、主人、生きておりましたの」 「生きていれば見つけ出せます。日本は一人の人間が存在を消せるほど広くはない。姿を隠せないシステムにもなっています。問題は、あと始末だけですね」  世伊子が黙って椅子を立ち、受け皿付きのティーカップを持ってきて、テーブルの上のポットから、香りと一緒に色の薄いハーブティーを注ぎ入れた。どういう表情を作ったらいいのか、世伊子にしても考える時間が必要だったのだろう。 「二、三確認したいことがあります。わざわざ伺ったのは、そのためです」と、すすめられたカップを手前に引き、肩に入っている力を意識的に抜いて、俺が言った。「田谷津幸司さんが交通事故にあったことは、ご存知でしたか」 「田谷津さんが、交通事故に?」 「左腕の骨折だけで、命に別状はないということです」 「存知ませんでしたわ。いつのことですの?」 「四日前の夜らしいんですが、あなたには、連絡できない理由があったそうです」 「わたくしに、連絡できない、理由?」 「ただの交通事故ではなかった、少なくとも田谷津さんは、そう思っている」  世伊子がまつ毛を微妙に震わせ、問いかける目で、そっと俺の顔を覗き込んだ。 「故意にクルマを当て逃げされたと、そういうことです」 「故意に、当て逃げ、ですか」 「田谷津さんは当然、ご主人からの手紙のことを思い出したわけです」 「でも、そのことと手紙と、どういう関係がありますの? 田谷津さんは主人がクルマをぶつけたと思っているのでしょうか」 「本人は否定していますが、可能性は、考えられます。わたしだってあなたに結婚を申し込むような男は許したくない。親友でもクルマぐらいはぶつけてやります」 「怖いことを仰有《おっしゃ》らないで。主人が本当に、田谷津さんを殺そうとしたように聞こえるじゃありませんの」 「可能性の問題ですよ。クルマが田谷津さんを殺そうとしたかどうかは、疑問です。本当に轢き殺す気なら、あの程度の怪我では済まなかった……この前、田谷津さんから結婚を申し込まれていることを、なぜ隠したんです?」 「隠したなんて……」 「意味のない拘りは持たない方だと、思っていましたが」 「主人の親友に結婚を申し込まれているとは、言えなかっただけですわ。今度の問題に関係があるとも思いませんでした」 「結婚を申し込んでいる男が、他にもいるんじゃないですか」 「刺《とげ》のある言い方はやめていただけません? 田谷津さんのことを言わなかったのは、謝ります。でも結婚は一方的に申し込まれただけですわ。主人のことに決着がつくまで、なにも考える心境ではないとご返事しています」 「決着さえつけば、考えてもいいという意味で?」 「考えるだけは考えるという意味です。結婚を申し込まれて、なにも考えずにご返事したら、先方に失礼に当たりますもの」  困ったもので、世伊子の言うことは正論なのだが、しかしノーという返事を返すのに一ヵ月も待たせる必要が、どこにあるのか。世伊子の気持ちの中に、口で言う以上の田谷津への思いが、なにか、あるのではないのか。俺が怒っても仕方はないが、田谷津幸司に気持ちが動いているのなら、はっきりそう言えばいいのだ。  我慢していた煙草を、ポケットから取り出し、どう考えても自分が怒っていることを意識しながら、火をつけて、俺が言った。 「先日、ご主人が駒ケ岳に登ったのは出版社の依頼だったと仰有った。その出版社の名前を、覚えておいでですか」  外村世伊子が胸の前で腕を組み、まだ意見のありそうな目で、しばらく黙ってから、唇を丸めて軽く息を吐いた。 「覚えておりませんわ。出版社の名前までは言わなかったかも知れませんわね。言われても、わたくし、分からなかったと思います」 「あなたには仕事だと言ったが、もしかしたら、仕事ではなかったかも知れない?」 「そうかも知れませんけど、でも主人が嘘を言う必要が、どこにありますの?」 「それが分かれば事件は解決です。最近、ご主人の住民票を見られましたか」 「主人の、住民票?」 「保険の契約事項を変更したとか、クルマの売買をしたとか」 「わたくし個人のものは取りましたけど、主人の住民票までは、見ておりませんでしたわね」 「この三年間、一度も?」 「見ておりません。駒ケ岳で遭難したといっても、遺体が発見されたわけではありません。気持ちのどこかでは、生きていると信じていた部分もあります。法律的に失踪宣告をすることも考えましたけど、決断できずにおりました」 「あなたご自身では、ご主人の戸籍や住民票に手をつけていないわけですね」 「必要はなかったし、変更したい理由もありませんでしたわ」  俺は用意してきた市販の委任状用紙を、内ポケットから取り出し、世伊子の前に置いて、ハーブティーのカップに手を伸ばした。 「一応調べてみます。区役所にはわたしが回ります。ご主人が東京にいるなら、自分で住民票を移していることも考えられる。委任状に、署名と捺印をお願いします」  世伊子が指の先で委任状の用紙をつまみあげ、切れ長の目で一瞥したあと、席を立って、固い歩き方でカウンターを向こう側に回り込んでいった。二人の客も揃って店を出ていったが、女の子は俺たちには近寄らず、棚のニット製品をたたんだり陶器の位置を直したり、ぶらぶらと店の中を歩き回っていた。なにを怒っているのか、自分でも分からなかったが、カウンターで用紙に書き込みを入れる世伊子の横顔を眺めながら、相変わらず俺は怒っていた。この苛立ちは、冗談ではなく、病気が本物になり始めたことの前兆なのかも知れない。  世伊子が戻ってきて、俺も立ちあがり、用紙を受け取ってから、俺たちは並んでフロアをドアのほうに歩き始めた。 「住民票のこと、わたくしが、自分で気づくべきでしたわね」と、チノパンツのポケットに両手の指先を入れ、通路に突き出したスタンドランプに首をすくめながら、外村世伊子が言った。 「意味がないとは、思いますがね。すべての可能性を自分で確かめないと、気が済まない性格なんです」 「田谷津さんのことは、やっぱり、謝ったほうがいいのでしょうか」 「さあ」 「謝れと仰有れば、謝りますわ」 「あの鯨……」 「は?」 「ピンクの、あの大きい鯨の縫いぐるみ、いくらですか」 「五万、八千円ですけど」 「あなたの手作りで?」 「鯨の縫いぐるみだけは、今でもわたくしが自分で作っております」 「予約をしておこう。娘の誕生日が近いことを、思い出してしまった」  世伊子がドアを開けてくれ、俺は欅並木の通りに出て、軽く手を振っただけで、クルマの通らない広い道を駅の方向に歩き始めた。歩きながらそのことをずっと考えていたが、田谷津とのことを謝るべきか、と世伊子に訊かれて、いったい俺が、どう答えればいいというのだ。 [#ここから5字下げ] * [#ここで字下げ終わり]  世田谷の区役所というのは、妙な場所にあって、電車を使えば三軒茶屋と下高井戸を結ぶ東急世田谷線の沿線になる。俺は自由が丘からタクシーに乗ったが、本当なら経費を節約して電車を使うべきなのだ。世伊子がそれぐらいの金で文句を言うはずもないが、気持ちの問題として、兼子とのキャバレーは、俺の個人負担ということにしておくか。  世田谷の区役所で、峰夫の住民票と世伊子の住民票と、念のために戸籍謄本まで取ってみたが、死亡も入除籍も移動も含めて、どの部分にも手はついていなかった。外村峰夫の住民票が動かされていれば、生きている証拠にもなるし、所在を突き止める手がかりにもなる。しかし書類の上では相変わらず峰夫は世伊子と結婚していて、この三年間ずっと奥沢のマンションで暮らしつづけている。免許証の更新期間も過ぎているはずで、身分を証明する手段も持たず、外村峰夫は、いったいどこで生きているというのか。  身分の証明がなければ、アパートも借りられないし個人経営の商店にも勤められない。外国人の不法就労者なら、使う側も覚悟を決めているが、日本人の身分不詳者は行動のすべてが制限される。昔は飯場の募集広告に『過去一切問わず』などという恐ろしいものもあったが、今はそんな環境もなくなっている。素姓を隠して生きていけるのは、東京なら夜の新宿か山谷ぐらいのものだろう。外村峰夫の性格からして、裏の世界で生きているとは考えにくい。『テントと寝袋さえあればどこでも暮らせる』という人生観は、どちらかといえば山谷のほうが似合っている。山谷に隠れているとすれば、面倒ではあるが、時間と根気で捜し出せる可能性はある。俺にはその方面にも、まだ刑事だったころのコネが残っている。千葉にある峰夫の実家に気配がなければ、とりあえず山谷に焦点を絞るのが手順だろう。どんな場所に隠れても、日本という国は、人間が一人完璧に姿を消せるシステムにはなっていないのだ。  区役所を出てから、世田谷線で三軒茶屋に出て、本屋で千葉県の地図と電車の時刻表を買い、新玉川線とJRを乗り継いで俺は東京駅に出た。二時ちょうど発のくだり特急に乗れば、外房線の茂原までは一時間もかからない。実家のある白子町というところまでどうやって行くのかは、茂原の駅に着いてから考えればいい。峰夫が姿を消した理由は分かっていないが、行動の様式は、漠然と輪郭を持ち始めている。あとは本人を捜し出して、世伊子に対する態度を決めさせることだ。日本に住めない事情があるというなら、俺が裏のルートから東南アジアにでも送り出してやる。このアルバイト料が高いのか、安いのか、もうどうでもいいことだが、あと始末まで面倒を見ることは最初からの約束だったのだ。 [#ここから5字下げ] * [#ここで字下げ終わり]  茂原駅から白子町の白子車庫という場所まで、路線バスもあったが、峰夫の実家がある牛込《うしごめ》までは距離があるということで、俺は茂原駅からタクシーを使うことにした。東京への通勤圏として建て売り住宅の宣伝が多い地域だが、『特急で東京まで一時間』という以外の取り柄は、どこにも見当たらない感じの街だった。昔は江戸から上総《かずさ》への宿場町かなにかだったのだろう。  かんたんに市街地を抜け、地平線が見えるような田圃と畑の中を九十九里方向に二十分ほど走ると、いくらか人家の集まった場所があって、そこが白子町|市場《いちば》だった。タクシーの運転手が煙草屋で牛込を聞いてくれ、それから五分で、俺は外村峰夫の実家に行き着いた。東京駅を出てから一時間三十分の行程だったが、しかしそれでも、この風景は、半端な田舎ではない。  槙と篠竹を防風林にしている敷地に入っていくと、松や椎の間にツツジがふんだんに花を咲かせていて、一瞬俺は桜台のアパートを思い出した。あの庭には花水木や金雀枝も花を咲かせていたが、山口麻希があのアパートに意地を張るのは、実家のこの風景から気持ちが離れないせいなのかも知れない。灰色の土が露出した広い庭には、金色の西日が当たって、防風林から抜けてくる風が小さい砂埃を舞いあげる。地図を見た限りでは、ここから九十九里浜まで、もう何キロもないはずだった。  俺は戸の開け放ってある廊下の前まで歩き、田舎家づくりの暗い部屋の中に、軽く声をかけてみた。出てきたのはジャージの運動ズボンに灰色の作業ジャンパーを着た年寄りで、山口麻希にも写真の外村峰夫にも似ていなかったが、年齢からは二人の父親らしかった。 「東京から来た柚木といいます。峰夫さんの奥さんに頼まれて、峰夫さんを探しています」  日に焼けたニワトリのような顔で、しばらく俺の風体を値踏みしてから、案山子《かかし》が風に揺れるように、年寄りがのんびりと日向の部分にしゃがみ込んだ。 「世伊子さんのお知り合いかね。そりゃまあ、わざわざご苦労さんですなあ。女房はちょいと、農協へ行っとりますがなあ」 「峰夫さんと、麻希さんのお父さんですね」 「峰夫や麻希ともお知り合いですかね。本当にまあ、ご苦労さんで」 「三年前に駒ケ岳で遭難したはずの息子さんが、生きている可能性があります。そのことについて、話を聞かせてもらえますか」 「わしには分からんですよ。せんだって世伊子さんが、峰夫の手紙がどうとか電話してきたけんど、不思議なことがあるもんですなあ。峰夫は死んどると思っていましたがね」 「手紙は、間ちがいなく峰夫さんが書いたものでした。郵便局のスタンプも四月二十日の消印でした」 「不思議なことですなあ。どういう加減で、そんなことになりましたんかなあ」  一緒に不思議がっていても仕方がないので、俺は父親から離れて、廊下の端に腰をおろし、風に揺れるツツジの花に目をやりながら、煙草を取り出して火をつけた。 「この三年間で峰夫さんが生きていると思ったことは、一度もないんですか」 「そうですなあ。最初のころは、この庭にひょっこり奴が入ってくる気もしておりましたがよ。それがいつだったか、峰夫が女房の夢枕に立ちましてなあ、あの世で幸せに暮らしとると言いおったですよ。それからはわしも、諦めましたがなあ」  頬には皺が固く走っていて、ニワトリのような目も表情をつくらず、口調からも心の動きの分かりにくい男だった。この父親が峰夫を意図的に匿《かくま》っているとしたら、俺なんかが百年かかっても敵う相手ではない。 「夢に出てきて、近況を知らせるぐらいなら、峰夫さんは優しい性格だったんでしょうね」と、煙を庭の遠くに飛ばし、横目で父親の動かない顔の皺を観察しながら、俺が言った。 「そりゃあんた、顔に似合わず素直な子供でしたがね。女房が鬼瓦のような顔の女でしてよ、峰夫の顔はそっちに似たんですなあ。それでも勉強はできるわ気は優しいわで、ここら辺りの在《ざい》じゃ評判のいい子供でしたがね。千葉大に行って、学校の先生にでもなっておりゃあ、今ごろ子供の一人や二人は出来とったかも知れませんなあ」  世伊子との結婚に反対だったというから、息子がこの家を捨て、外村家の養子になって子供もつくらずにいたことに、父親としては気持ちのどこかにまだ未練を残しているのだろう。 「峰夫さんが生きていて、なにかの理由で姿を隠しているとは、考えられませんか」 「なにかの理由ってのは、そりゃあ、なんのことですかなあ」 「誰かに追われているとか、他人に恨まれているとか」 「それっくれえのことで、なぜ峰夫が隠れにゃならんのです。気持ちの優しい親思いの倅でしたがね、生きとったらわしらに心配はかけんでしょうが。わしらを困らせたのは、あとにも先にも、世伊子さんと結婚する言い出したときだけでしたがよ」 「婿養子になることに、ご両親は反対したんでしたね」 「なにを考えたんですかなあ。あちらもご大身で、一人娘じゃいうことは分かりますけんど、婿養子にまでならんでもよかったですがね。でもまあ、今んなってみりゃあ、あれが峰夫の、たった一つの我儘《わがまま》でしたなあ」  そのころになって、やっと俺も気がついたが、峰夫に関する父親の口調は、最初からすべてが過去形になっていた。息子が三年前に死んでいるという前提がなければ、ここまで回想としては喋らないだろう。 「峰夫さんは子供のころから、自然や山に興味を持っていたんですか」と、そびえ立つ防風林と、その上を遠く飛ぶ二羽のトンビを眺めながら、庭に煙草を弾いて、俺が言った。 「今から考えりゃあ、あれが間ちがいでしたかなあ」と、なにを見ているふうでもなく、尖った顔を茫然と西日の射す庭に向けたまま、父親が言った。「ふつうに勉強しておって、ふつうに大学に行っておりゃ、長生きもしたんでしょうなあ。峰夫が妙なものに凝り始めたんは、高校んときからですがよ。山登りの好きな先生がおって、いい先生じゃったが、やっぱし山で死におりましたが」 「その先生が、峰夫さんに、山登りを教えたということですか」 「女房は因縁じゃと言いますが、どうですかなあ、わしには偶然としか思われませんなあ。先生が死におったのも、峰夫と同じ駒ケ岳でしたがね」 「先生も駒ケ岳で、ね」 「結婚して半年もたたんうちでしたなあ。先生も気の毒じゃったが、奥さんも気の毒でしたがね。用もないのに、人間はなんで、山になんぞ登らにゃいかんのですかなあ」  風は少し強くなっていたが、西日は相変わらず穏やかで、黄色い蝶々がツツジの花の上を気持ちよさそうに飛び回っている。空の高いところで鳥が鳴いていたが、その声がトンビの声なのか、ほかの鳥の声か、俺には判断はつかなかった。  一度暗い部屋の中をふり返り、視線を庭に戻してから、新しい煙草に火をつけて、俺が言った。 「息子さんからの絵葉書とか、手紙とか、残っているものがありますか」 「どこぞにありましたかなあ。女房がおりゃ分かるですけんど、仏壇の引き出しにでも入っておりますかなあ」 「探してもらえませんか。世伊子さんに手紙が届いたことは事実ですから、一応は、確かめてみます」  父親が反応のない顔で、ゆらりと立ちあがり、膝の出たズボンの裾を引きずって溶けるように部屋の暗処《くらみ》に入っていった。どういう暮らし方をしているのかは知らないが、庭の隅には小型の耕運機も置かれているから、年寄りが二人で耕す畑ぐらいは残っているのだろう。贅沢さえ言わなければ、この庭と広い空だけで人間はどうにでも生きていけるものなのかも知れない。  入っていったときと同じように、足音もたてずに戻ってきて、廊下の同じ場所に座り、色の褪せた包装紙で包んだ紙包みを父親が黙って床の上に押し出した。包みの色は変色していたが、まん中は青い輪ゴムできっちりと止められていた。 「女房は始末のいい女でなあ。峰天からの手紙はそうやって取ってありますがよ。わしは火にくべろと言うとりますが、女親てえのは諦めの悪いもんですがね」  会釈して、紙包みを引き寄せ、輪ゴムを外してから、俺は躰を捻って廊下の上にその紙包みを開いてみた。中には二通の封書と十枚ほどの葉書が入っていたが、葉書はどれもみな絵葉書だった。宛名は『山口かつ子様』となっているから、それが母親の名前なのだろう。親のいない俺には感想の言い様もないが、息子というのは、大人になってからも、母親に対してこんなふうに手紙を書いたりするものなのか。  九枚の絵葉書は、すべて旅行先からのもので、俺は見にくい消印を確かめながら、年代順に区分けをして廊下に並べてみた。最初の絵葉書は修学旅行先からのものだったが、表の写真には奈良公園の鹿が写っていた。文字にはそのころから角張った右あがりの癖が表れていた。中には一枚見覚えのある絵葉書があって、それは峰夫が山口麻希宛てに出した、沖縄からの絵葉書と同じ写真だった。日付けも四年前の四月で、峰夫はよっぽどこの珊瑚礁が気に入ったのだろう。  二通の封筒のほうは、中身はそれぞれ一枚の便箋だったが、最初の手紙は東京で下宿生活を始めたころのものだった。入学した写真専門学校の様子や、下宿先の話題が、気取りのない文章でかんたんに書かれていた。もう一通の封筒がすべての手紙の中で一番新しく、消印は三年前の二月十五日だった。内容はいくらか抽象的だったが、両親の老後を心配する気持ちが外連味《けれんみ》なく淡々と表現されていた。一時間半で帰れる距離に住んでいて、電話だってかけられたろうに、これが世間で言う、息子の母親に対する愛情というやつなのだろう。  手紙の中には三年前の六月十日以降に投函されたものはなく、問題もヒントもなく、俺は葉書と封筒を一つにまとめ、包装紙に包み直して父親の横に押し戻した。廊下には西日が届かなくなっていて、ツツジの花に飛んでいた黄色い蝶々も見当たらなかった。こんな田舎までやって来て、やはり無駄足だったが、無駄足を踏んだことに特別な徒労は感じなかった。仕事の無意味さに一々疲れていたら、人生そのものの無駄さ加減に、耐えられるものではない。  煙草の箱を指で探り、残っていた一本を抜き出したとき、消えたはずの黄色い蝶々が目の前を横切って、突然、俺はいやな予感に襲われた。三年前の、あの二月十五日付けの手紙だけ、なぜ内容に具体性がないのか。なぜ外村峰夫は、急に両親の老後を気にかけ始めたのだろう。  俺は父親に返した手紙の束を、もう一度引き寄せ、包みを開いて、封筒の文章を注意して読み直してみた。年金の手続きは忘れていないか、老人保険には入っているか、年寄りを狙った悪徳商法には騙されていないか。具体的な内容はそんな程度で、あとは両親に仲よく暮らしてほしいとかいう、声に出すのが恥ずかしいような文章だった。しかし三度まで読み直しても、絵葉書とは雰囲気が違うという以外に、筆跡も含めて間ちがいなく外村峰夫からの手紙だった。いったいこの手紙の、どこがおかしいのか。どう読み直してもどこもおかしくないのに、なぜこれほどいやな予感がするのか。  手紙を手に持ったまま、五分ほど同じ文章を読み返し、それから便箋を封筒に戻して、火をつけた煙草の煙を、長く庭に吐き出した。たしかに外村峰夫の字で、文章にも問題はなかったが、問題は、封筒と便箋が模様のない白いものだということだった。世伊子に来た手紙も、封筒と便箋は白い定形物だった。今手元にある手紙は、いくらか黄ばんではいるが、もし二通に同じ封筒と同じ便箋が使われているとしたら、どういうことになるのだろう。峰夫は三年以上ものあいだ、隠れて生きながら封筒と便箋だけは持ち歩いていたというのか。自分の趣味に固執して、文房具屋を回って歩き、無理やり三年前と同じ封筒と便箋を探し出したということなのか。 「お父さん」 「ああ?」 「この手紙、一通だけ、預からせて下さい」 「それぐれえ、そりゃあ、構わねえけんどなあ」 「必ずお返しします。息子さんの所在も、たぶん、分かると思います」 「峰夫のおる場所って、そりゃまた、どういうことですかなあ」 「ですから、峰夫さんが今どこでどうしているのか、全員が知りたがっているそのことが、分かるという意味です。お手数ですが、茂原の駅まで、タクシーを一台呼んでもらえますか」 [#ここから5字下げ] 5 [#ここで字下げ終わり] 「あーら草平ちゃん、どこで浮気してたのよう。例の話がどうなったか、和実ちゃんだって心配していたわよ」  まだ夜の八時だというのに、クロコダイルには見覚えのない客が六、七人、女を交えて狭いカウンターに肩を寄せあっていた。  俺はカラオケから離れた場所に席をつくらせ、武藤からおしぼりを受け取りながら、花粉症がぶり返したような、寝ざめに初恋の女の子の夢を見てしまったような、面倒くさい気分で腰をおろした。昼間は高南外科やら所轄の交通課を回って歩き、夕方には兼子からの報告書を受け取って、それからはずっと、映画館で時間をつぶしながら山口麻希のアパートに電話をかけつづけていた。連絡の取れないことに文句はなかったが、おろすしかない肩の荷物は、早くおろしてしまいたい。どんなトラブルでも、トラブルのあと始末はやはり面倒なもので、一週間ぐらいは、事件からも女からも離れて昼酒に浸かるような休みを取るべきかも知れない。独り者の気楽な人生だと言い訳をしてみても、三十八年間生きていれば、三十八年ぶんの疲れは溜まってくる。 「ちょうど一週間よねえ。どうしてたのよ。例の旦那、見つかった?」と、ポマードの光をしつこく見せつけながら、カウンターに突き出し[#「突き出し」に傍点]の小鉢を置き、意味ありげなウインクで俺を恐縮させて、武藤が言った。 「和実ちゃんの部屋代は、下げてやれそうだ」と、水割りのグラスを受け取り、煙草に火をつけて、客の顔ぶれを眺めながら、俺が答えた。「見つかったとしても、まあ、マスターには会わせられない」 「どういう意味よう。その旦那って、いい男なわけ? あたしは草平ちゃんみたいに浮気者じゃないわよ」 「顔はマスターの好みじゃないだろうが、性格的には、いい男らしい」 「残念だったわね。反省はしてるんだけど、あたしって面食いなのよねえ。だけどそんなに性格のいい旦那が、どうして黙って姿を消しちゃったのよ。セイ子さんていう奥さんが、ブスだとか?」 「好みはそれぞれだが、ブスでは、ないな」 「我慢すればいいのにねえ。和実ちゃんが言ってたわ、奥さんって、ものすごいお金持ちなんだって。顔がそこそこなら文句はないのにねえ。旦那って、へんにロマンチストなんじゃないの?」 「どうだかな。難しい問題があるんだろうさ。金に拘るやつもいれば、女に拘るやつもいる。人生ってのは思いどおりにいかないもんだ」  武藤がふーんとうなずいて、呼ばれた他の客のほうに移っていき、カラオケで森高千里の『コンサートの夜』を歌い始めた女の子の横顔を眺めながら、俺は水割りのグラスに軽く口をつけた。深酒ができないことは承知しているが、素面《しらふ》でいるには、少しだけ気分が重すぎる。他人のカラオケに聞き入る趣味はなくても、時間つぶしに飲む酒の肴には、この程度の女の子のこの程度の歌が、ちょうどいい。  歌が終わって、その合間に俺はピンク電話で山口麻希のアパートに電話を入れてみたが、受話器には相変わらず悠長な呼び出し音が聞こえるだけだった。部屋の広さを思い出すまでもなく、帰っていて電話に出られない状況ではないはずだ。一人暮らしで留守番電話を使っていないのは、山口麻希のそういう性格なのだろう。  そのあとも俺は、カラオケの切れ目に三度山口麻希に電話をしてみたが、三度とも気楽な呼び出し音が返ってきただけだった。  武藤も客の相手で忙しく、それから俺は、どうでもいいカラオケを十曲ほど聞き流し、水割りを二杯お代りして、クロコダイルを出た。俺を送り出しながら、武藤がドアの外でまた夜あけのコーヒー[#「夜あけのコーヒー」に傍点]を誘ってきたが、俺は丁重に断らせてもらった。どこまで本気なのか知らないが、武藤も懲りない男で、新宿も懲りない街で、そして俺も、それ以上に懲りない性格らしかった。誰に言っても信じてはもらえないが、俺の本当の希望は、オカマも女もいない南の島で一生魚を釣って暮らすことなのだ。 [#ここから5字下げ] * [#ここで字下げ終わり]  桜台の駅から電話をして、山口麻希が帰っていないことは分かっていたが、自動販売機で缶ビールを二本買い、俺は十分ほどの道をぶらぶら『かすみ荘』まで歩いていった。寒いわけでもなし、雨が降るわけでもなし、女の子を待つだけなら道にしゃがみ込んでビールを飲んでいればいい。警官時代は徹夜の張り込みなんか日常の業務で、一週間のうち四日を徹夜したこともある。そのとき飲めたのは差し入れのコーヒーかウーロン茶だったから、缶ビールを上着のポケットに突っ込んでいるこの境遇は、文句を言いながらも、気分的には休日前の夜桜見物と変わりはない。今夜山口麻希が帰らなかったところで、俺のほうも他に予定があるわけではないのだ。  どう公平に見ても傾いているとしか思えないアパートには、二階の一部屋に電気がついているだけで、山口麻希を含めて、一階の住人は一人も帰っていなかった。花水木と金雀枝の間から前庭を覗いてみたが、二階の明かりが届いているのは物干し用の柱までだった。その暗闇に浮かんだ白い小手毯の花が印象的で、俺は敷地を山口麻希の部屋の前に回っていった。誰かに見られたら怪しまれるだろうが、俺に言わせれば、こういうアパートは住んでいる人間のほうが怪しいのだ。  時間は十一時になる少し前で、クロコダイルで飲んだウイスキーの畳も適切だったし、買ってきた二本のビールも、縁側に座ってぼんやり女の子を待つには適切な話し相手だった。芸術家の私生活がどんなものか知らないが、俺にしても明け方まで待つ覚悟を決めているわけではなかった。引きあげる時間は、ビールの減り具合と相談すればいい。明日出直しても、それが明後日《あさって》になっても、外村峰夫が逃げ出す心配はないのだ。  一本めのビールを飲み終わるまでの間、煙草を二本吸い、もう一本の缶ビールの栓を引き抜いたとき、背中で音がして、部屋の明かりがカーテンを透して薄く庭に流れ出してきた。人の声は聞こえなかったから、山口麻希は一人で帰ってきたのだろう。礼儀として、俺はガラス戸を軽くノックした。  カーテンが勢いよく開き、ガラスの透明な部分に髪の短い頭が覗いて、五、六秒ねじ込み式の鍵を回す音をさせてから、山口麻希がなにか唸りながら大きな目で顔を突き出した。俺は光の中に顔を晒してやって、丸い目を見開いている山口麻希に、小さく手をふった。 「今は、コンタクト、入っているのか」 「当たり前じゃないよ。あんた、ここでなにしているの?」 「訊き忘れたことがあって、待たせてもらった」 「泥棒と間ちがわれたらどうするのよ」 「そのときは留置所で、君が俺の無実を証明しに来るのを待っていた。恋をすると男は、気が長くなるもんだ」  山口麻希が華奢な肩で大きくため息をつき、下唇を突き出しながら、投げやりな動作で敷居の向こう側に座り込んだ。どこに出かけていたのか知らないが、今夜はセミロングのキュロットパンツで、ストライプのシャツの肩には白いセーターを巻きつけていた。女子大生がデートから帰ってきたところだと言っても、疑う人間はいないだろうが、女子大生ならこんな早い時間に帰ってきはしないか。 「わたし、お風呂に行きたいのよね。用があるなら早くしてくれる?」 「いくつか質問がある。暇を持て余して君を待っていたわけじゃない」 「なんでもいいからさ、歩きながらでもいいでしょう? お風呂屋さん、十二時までに行かないと入れてもらえないのよ」 「風呂に入らなくても死にはしない……君の兄さんなら、そう言うだろうな」 「わたしは兄貴よりきれい好きなの。それに今日はバイトで汗をかいたのよ。ここで待っていてもいいけどさ、お風呂だけ行ってくるわ」 「当分風呂には入れなくなる。今から慣れておいたほうが、いいんじゃないか」 「それ、どういう意味よ」 「刑務所の中では、自由に風呂なんか入れないってことさ」  山口麻希の口が、開きかけたままの形で動かなくなり、部屋の中から、丸い大きな目が暗く光りながら俺の顔を覗き込んできた。 「田谷津を轢き殺す意思はなかったと、どうやって証明するんだ? 君にその気がなかったとしても、証明できなければ状況は殺人未遂だ」 「まさか……」 「風呂、まだ行きたいか」 「嘘でしょう? わたしのこと、からかってるんでしょう?」 「冗談にしては質が悪すぎるものな」 「脅かさないでよ。見かけによらず、わたし、神経質なんだから」 「俺は今日、夕方から十回も君の部屋に電話をかけた。それに一時間も前から、ここで君の帰りを待っている。暇だったわけでも、君を脅しに来たわけでもない」  汗でも噴き出したのか、山口麻希が肩からセーターをむしり取り、敷いたままになっている布団の上に、うしろ向きに放り投げた。 「あんたの言うこと、意味が、分からないな」 「簡単なことさ。君はクルマを持っていない。田谷津を轢くにはクルマを誰かに借りるしかなかった。友達か、レンタカーか、だけどそんなことは、一週間前の君の行動を調べれば割り出せる。警察はまだ、そこまで手をつけていないけどな」  小机の横からプチバッグを引き寄せ、煙草とライターを取り出して、生意気な手つきで火をつけながら、山口麻希が言った。 「そんなに、あのこと、大変なことだったの……」 「一歩間ちがえば、田谷津は死んでいたかも知れない」 「そんな気はぜんぜん無かった。脅かしてやろうと思っただけよ。世伊子さんに結婚なんか申し込んで、あいつ、前はわたしとつき合っていたんだもの」 「田谷津にも確認した。でも田谷津は、振られたのは自分のほうだと言っていた」 「煮えきらなかったのよ。兄貴が駒ケ岳で遭難したときから、ぐずぐず言い出したの。あいつ、本当は最初から世伊子さんのことが好きだったのよ」 「自分とつき合っていた男が、兄さんがいなくなって、今度は世伊子さんに結婚を申し込んだ。殺人の動機としては、じゅうぶんだろうな」 「あんた、本気でそう思ってる?」 「警察にそう思われることが問題なのさ」 「やばいなあ。殺す気なんか無かったのになあ。あいつにも未練はなかった。平気な顔で世伊子さんに結婚を申し込むから、腹が立っただけ。世伊子さんもあいつも、三年で兄貴のことを忘れようとしてるんだもの」 「世伊子さんは田谷津の申し出を、受けないと思うけどな」 「分からないわよ。世伊子さんだって女だし、淋しくなればその気になっちゃうこと、あるかも知れない」 「他人の人生に君が口出しする必要はない。クルマのことは、みんなが黙っていれば警察には知られない。田谷津だって騒ぎを大きくしたいとは思わないだろう。君が自分で騒ぎを大きくしなければ、あとは時間が解決してくれる。兄さんから預かった手紙は、この前の、あの一通だけなのか」  山口麻希が、キュロットパンツの膝を抱えながら俺の顔を見あげ、諦めたように、ふーっと長く煙草の煙を吐き出した。額の広い整った顔立ちなのだが、そのふてくされた目つきが、どうにも俺は憎らしかった。 「今から考えれば、おかしいことは、幾つかあった」と、ビールを飲み干し、空き缶を縁側に並べながら、部屋の明かりが小手毯の植え込みに届く位置まで躰をずらして、俺が言った。 「一昨日《おととい》、俺が兄さんの手紙を見せたとき、君はとなりの部屋から絵葉書を出してきた。探しもせずに、すぐに出してきた。でもあれは四年前の絵葉書だ。いくら兄妹《きょうだい》の絵葉書でも、普通はそんなもの、どこかにしまい忘れている。あの絵葉書は、俺に見せるために、最初から用意してあった」 「ぼんやりした顔してて、あんた、けっこう観察してるんだ」 「出版社の件に関しては君も迷った。捜索隊に出版社の人間がいたことは事実だった。勘違いだったと言っても、言い訳にはなる。しかしあのまま俺が信じれば、兄さんはもっと偶然の遭難らしくなる。迷ったのか、高をくくったのか、どっちなんだ?」 「やっぱりね。そうなのよね。あのとき、ちょっと迷ったのよね。兄貴の遭難を疑う人がいるなんて、思ってもみなかったもの」 「手紙のからくりは最後まで分からなかった。分からなくて、当然だったけどな……」  喉の粘膜が、煙草なんか吸ってくれるなと叫んでいたが、神経の苛立ちを鎮めるためだけに、また、俺は煙草に火をつけた。 「手紙も、絵葉書も、両方とも君の兄さんが書いたものだった。鑑定すれば同一人物の筆跡と結果が出るに決まってる。もし千葉の実家で、もう一通の手紙に気づかなかったら、今ごろ俺は、まだ山谷あたりで君の兄さんを探していた」 「あんた、親父とお袋に、会ったんだ」 「お袋さんには会わなかったが、親父さんは元気そうだった。三年前に、君の兄さんは、お袋さんに手紙を書いている。そのときに使った封筒と便箋が、今度の手紙と同じものだった」 「お袋への手紙、か。兄貴って、そういうことにまめな男だったものね。苦労したわたしが馬鹿みたい」 「君は、実家には帰っていないのか」 「田舎のことを考えると気が滅入るのよ。まさか、あのこと、今更言うわけにいかないもの」  山口麻希が暗い庭に煙草を弾き、ビールの空き缶に視線を流して、生意気そうに、ちっと舌を鳴らした。 「わたしもビールを買ってくればよかった。お風呂も間に合わないし、今日はついていないなあ」 「ついてるさ。風呂を我慢しただけで警察に行かずに済む。兄さんのことを素直に話せば、あと始末もなんとかしてやる」 「まいったなあ。結局、あんた、ぜんぶ分かっているのよね」 「だいたいの見当が、ついているだけさ」 「兄貴が自殺だったことは、知ってた?」 「駒ケ岳は兄さんにとって、特別な山だったのかも知れない。影響を受けた先生が死んだ山だものな。下山予定日の届けを一日ずらしたのも、計画を確実に実行するためだった」 「そういうことなのよね。分かっちゃうと、馬鹿ばかしいわね」 「三年前のあのときから、君の兄さんは、駒ケ岳の誰にも発見されない場所で、ずっと眠りつづけている」 「白血病だったのよ。突然医者に言われて、自分でもびっくりしたらしい」 「そんなところだろうとは、思っていた」 「病院で検査をしたときには、もう手遅れだった。世伊子さんに打ち明けようとしたけど、言い出せなくて、世伊子さんのことも諦められなくて、あの手紙をわたしに残したの。普通の男がそんなことをしたら、わたしだって怒ったと思う。でも、兄貴、いい奴で、人を困らせたり迷惑をかけたり、一度もしたことのない奴だった。そんな兄貴が、最後に、一つだけ我儘をきいてくれって言うの。世伊子さんとは、死んでも別れたくないって。ほかの男の人には、絶対に渡したくないって。世伊子さんには悪いと思ったけど、兄貴の気持ちも大事にしてやりたかった。わたしだってずっと困っていた。兄貴には一ヵ月後に出すように言われたけど、手紙は先月まで出せないでいたの。そうしたら田谷津さんが結婚を申し込んで、世伊子さんも雰囲気がおかしくて、それで、あの手紙、出してしまったの。田谷津さんにクルマをぶつけたのは、兄貴が生きているように見せかけるためだった。怪我をさせる気だって無かったのよ。ここまで大袈裟な問題になるなんて、思ってもみなかったわ」  一階の奥の部屋に、明かりがつき、俺の腕時計も十二時をすぎて、塀に被さっている桜の枝がわさわさと風の音をたて始めていた。外村峰夫の、それが純粋な愛だという考え方も成り立つだろうが、純粋な愛は身勝手でいいという理屈には、やはり俺は馴染めなかった。誰もが口をそろえて『いいやつだった』という外村峰夫に未熟さと欺瞞《ぎまん》を感じるのは、たんに俺の人生観が屈折しているからなのだろう。誰が加害者で誰が被害者であるのか、区別はつかないが、外村峰夫の執着が他人を一人も幸せにしなかった事実は、否定できない。山口麻希だって、千葉の田舎で息子の死を遭難だと信じている両親に、いつかは事情を説明しなくてはなるまい。たった一通の手紙で人間の存在が証明できるなどと、外村峰夫は、どこまで本気で考えていたのか。  俺は分かっている時間を、もう一度確認し、煙草を踏みつぶして、立ち木の風を眺めながら縁側の上で腰を伸ばした。歳のせいでもないだろうが、自分で思っていたより、少しだけ酔いが強く回っているようだった。 「柚木さん、警察のこと、本当に大丈夫?」と、立ちあがった俺に、キュロットパンツの脚を縁側の外に投げ出して、山口麻希が言った。 「警察も暇じゃないからな。これ以上問題が起きなければ、あんな交通事故はすぐに忘れるさ」 「あんたって、けっこうハードボイルドなんだね」 「男はロマンチックにしか、生きられないからな」 「ねえ、一昨日のあれ、本気だった?」 「一昨日の、あれ[#「あれ」に傍点]?」 「年齢制限がなければ、立候補するって言ったこと」 「ああ、あれ……か」 「わたし、受付けてやってもいいけどな。ハードボイルドをやってるおじさんって、意外に好みなの」 「そのうち君の芸術を鑑賞させてもらうさ。俺にはこのアパートも、じゅうぶん芸術だけどな」 「取り壊しが決まっているのよ。今年いっぱい頑張ると、補償金が出るの」 「芸術にも、金がかかるわけか。とにかく今夜は戸締りをして、早く寝ることだ」  小さく肩をすくめた山口麻希に、会釈をし、ズボンのポケットに両手を突っ込んで、濃い植木の匂いに追われるように、俺は庭を路地に向かって歩き出した。山口麻希が立候補を受付けてくれるというのに、返事ができなかったのは、柄にもなく俺が疲れていたからだろう。他人事ではあっても、男と女のトラブルは、見ているだけで気が滅入る。  塀の横を通ったとき、敷地の中でガラス戸の閉まる音が聞こえ、俺は立ち止まって煙草を足もとに捨て、靴の底で強く踏みつぶした。空気は重くなっていて、風も強くなっていたが、路地を照らす街灯にはもう夏の蛾が集まっていた。山口麻希の甘酸っぱい汗の匂いを思い出しながら、新しい煙草に火をつけ、桜台の駅に向かって、俺はゆっくりと歩き出した。昔この町に住んでいた女の子の名前を、突然思い出したが、だからって、それで感傷的な気分になったわけでもなかった。女の子とは二回デートし、キスもしたが、別れた理由までは思い出さなかった。理由なんかあってもなくても、男と女はいつかは別れるように出来ているものなのだろう。  桜台の駅に着いたのは、十二時二十分で、のぼりの最終電車がまだ一本だけ残っていた。俺は自動券売機で池袋までの切符を買い、しばらく迷ってから、公衆電話に歩いて、外村世伊子の自宅に電話を入れてみた。常識では明日にするべきだったが、事件のめどが立ったことだけは、今夜のうちに知らせておきたかった。もしベッドに入っていたら、そのときは謝って電話を切ればいい。  三回コール音が鳴って、受話器が外され、世伊子の他人行儀な声が、予想外に気楽な調子で聞こえてきた。 「柚木です。夜中に、申しわけありません。お休みでしたら、明日かけ直します」 「十二時にベッドに入っているほど、わたくし、年寄りではありませんわ」 「正確には、十二時二十二分です」 「そうでしたの。ではわたくし、十二時二十二分にベッドに入っているほど、年寄りではありませんわ」 「問題が解決したので、一応、報告しようと思いました。明日正式に、店のほうに伺います」 「今、問題が解決した、と仰有いました?」 「そう言ったつもりです」 「主人が見つかった、ではありませんの?」 「事情が込み入っていて、電話では、一口に説明しかねます」 「柚木さん、今どちらにおいでですの?」 「桜台に、ちょっと」 「桜台?」 「昔この町に住んでいた女の子の名前を、思い出していたところです」 「桜台って、池袋線の桜台ですわね」 「あれから、二十年もたっている」 「はあ?」 「こっちの話です」 「柚木さん……」 「夜中に、お邪魔をしました」 「柚木さん?」 「はい?」 「これからお目にかかれません?」 「しかし……」 「事情をお聞きしたいの」 「しかし、夜中の、十二時二十三分です」 「時間の問題ではないでしょう? どういうふうに解決したのか、それを想像しながら、わたくしに朝まで起きていろと言うの?」 「眠れるなら、もちろん、眠ったほうがいい」 「眠るには話を聞くしかありません。それともあなた、中途半端にわたくしを放り出して、昨日の敵を討つおつもり?」 「かたき?」 「昨日、柚木さん、怒っていたじゃないの」 「あれは、そういうことでは、なかった」 「それなら今夜、どういう事情なのか、これから説明しに来ていただきたいわ。わたしは女子高校生ではないし、鯨ハウスだって明日はお休みです」  言われてみれば、たしかに、外村世伊子は女子中学生の母親ぐらいの歳ではあるし、三年間空白だった亭主の消息を報告するのに、時間を言い訳にするのは見当ちがいかも知れない。それに俺にしても、世伊子に会いたい衝動があったことは、恥ずかしながら、事実なのだ。 「鯨ハウスは、明日、お休みですか」 「定休日ですわ」 「電話して、正解だったようです。これから伺えば鯨を持って帰れる」 「鯨……」 「昨日予約をした、手作りの、あの大きいピンク色の鯨です。お店で待ってもらえますか。三十分で行けると思います」  世伊子の大きなため息を聞いてから、電話を切り、テレホンカードを抜き出して、改札口には向かわず、俺は駅前の道を環七の方向に歩き始めた。電車を乗り継いだらどこかで終電も止まってしまうだろうし、池袋や渋谷からでは、かえってタクシーは拾いにくい。自由が丘に行かなかったところで、どうせ今夜は朝まで新宿に引っかかるのだ。明日鯨ハウスが定休日なら、俺も明日は人生を定休日にしてやればいい。  さっきまであれほど疲れていて、世伊子への説明に苦労することも分かっていて、それでもやはり、俺の足は環七の方向に急いでいる。南の島で一人ぼんやり魚を釣っている自分の姿が、ふと目に浮かんだが、俺はそれを、煙草の煙と一緒に軽く道の端に吹き飛ばした。分かっていながら、ここまで女に懲りない体質を、いったい俺は、誰に自慢したらいいのだろう。 [#改ページ] ●初出誌一覧 雨の憂鬱 臨時増刊小説現代91年10月15日号「恋をした日は雨が降る」を改題 風の憂鬱 臨時増刊小説現代90年10月20日号「彼女の別な場所」を改題 光の憂鬱 臨時増刊小説現代92年4月21日号「別れない男」を改題 底本 単行本 講談社刊 一九九二年一〇月三〇日 第一刷